[2009.1.30載]日本中を釘付けにしたNHKの大河ドラマ「篤姫」が終わり、「天地人」がスタートしましたね。
いつものように話は幼い子供の時代から始まるのですが、そこで繰り広げられる幼い与六(後の直江兼続)と母の会話には何度となく感動させられました。 ▼まずは第一話・・・ たった5歳の与六が見込まれて、同じく幼い城主の養子、喜平次(後の上杉景勝)の将来の支えになればと小姓に召される話が持ち上がるのですが、それを幼い子に納得させようとする母と与六の会話がすごい。 「そんなところに行くのは嫌じゃ、父や母とずっとここで暮らしたい」と泣きじゃくる与六に向かって母は・・・ 「おまえはもう母の子ではない」、「これからはこの越後の子となるのです」と・・・ これって個や我を大切にする現代にあっては聞かれなくなった会話、発想ですよね。 でも昔はこれに近いフレーズをいろんな偉人を引き合いに出しながら小さな子供のうちから親や先生に吹き込まれていたような気もします。 本来、人は「個」や「我」を持ちそれを主張する存在であると同時に、天の子であり大地の子でもある・・・ なのにこうした言い回しは一歩間違うと全体主義のにおいがし始めることもあり、一種タブー視されている感がなくもない。 天の子であり大地の子でもある・・・ その源がユング風に言うなら「我」や「意識」の底に広がっているはずの「普遍的無意識」であり、人はそこを通して天や大地と一体となり、だからこそそこに集う人々とつながることができるんですよね。 ▼さらに第二話では・・・ そしてとうとうたった5歳の与六は小姓に召されて、これまた幼い喜平次とともに寺で修業の身となるのですが・・・ 寂しさが募り「こんなところに来とうはなかった」と与六は寺をぬけ出し降り積もる雪の中を実家にたどり着く。ですが、母は泣きながら雨戸を閉ざして「帰るのです」と・・・ 感動的な場面で見ていて胸が熱くなりますが、そういえば昔はこんな場面もいろんなところであったような気が・・・ でも時代は変わり現代は、いったん巣立ったはずの人たちがあまりにも安易に巣に戻り、母もまたそれを包み込んでしまっているのかもしれませんね。 泣きじゃくりながらも引き返す与六の姿を見ていてふと、ユングのウロボロスを思ってしまいました。ウロボロス、そして大母・・・ユングの世界ではこれらは全てを生み出し育む母体であると同時に、さまよえる人を誘い込み飲み込んでしまう闇の中の淵でもある。 もしかしたら今の日本はウロボロスが人を誘い込む吸引力が強くなっているんじゃないか・・・ いったん巣立っては見たもののやがて離婚、退職、挫折、鬱・・・事情はさまざまだとしても、行き詰るといとも簡単に母なる世界に回帰しているような気がしないでもない。 でもいったんウロボロスの世界に回帰すると再び飛び立ち羽ばたくことは難しいですよね。だからこそ昔の母性はあえて雨戸を閉ざしていたのではなかったかなどと・・・ 幼くけなげな与六を見ていてウロボロスとか普遍的無意識などを連想するのも妙な話なのですが・・・こんなにかわいく、けなげな名子役の出番がたった2回で終わってしまうのはいかにも残念といった感じのする、あっという間の幼少時代でした。後は回想シーンを楽しみにするしかしようがないのかも・・・ ところで、ユングの▼普遍的無意識や▼ウロボロスについては他にもいくつか記事が・・・
by c_mann3
| 2015-08-14 00:00
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