◆ふしぎなキリスト教・・・

橋爪大三郎さんと大澤真幸さんの対話形式の本「ふしぎなキリスト教」、講談社現代新書2100・・・
橋爪さんの名前にひかれて何気なく買った本なのですが、副題に“日本人の神様とGODは何が違うか”とあり読み始めてみると素晴らしい本でした。

 ・ユダヤ教とキリスト教はどう違うのか・・・
 ・一神教とは、そして信仰とは・・・
 ・三位一体とは、そして聖霊とは・・・
 ・いま世界を支配する近代科学や資本主義はなぜキリスト教圏で生まれ、
  発達したのか・・・
 ・そうした時代を築いた経済学者や科学者はなぜクリスチャンのままで
  いられたのか・・・

もやもやとしていた幾多の素朴な疑問がきわめて軽妙でおしゃれに解説されていて、読み進めるうちに一瞬瞬霧が晴れる、でも晴れたかと思うとまた新たな霧に包まれ、そしてまた晴れる。
そんなことを繰り返しながら読み終わった後は再び濃い霧に包まれてしまうのですが、途中のところどころの晴れ間に垣間見えた峰々の断片的な稜線を脳裏でつないでいくと、なんとなく山の輪郭が浮かび上がってくる気がしないでもない不思議な感覚に襲われます。


▼そうして浮かび上がってきた輪郭とは(信者なら許されない恐れ多い理解なのかもしれませんが)・・・

キリスト教とは旧約聖書の土台の上に新約聖書を乗せ、三位一体と言う摩訶不思議なかすがいで接合したもの。
理解しがたいヤハウェの下に敬虔なる人の姿のキリストを一瞬だけ配し、昇天させた後は聖霊という余韻のみを残したもの。
イエスが昇天した後には聖霊と福音書だけが残され、終末の再臨の日までは人々はそれを頼りにただ神の思いを推し量るしかない。

だが残されたものをつなぎ合わせても矛盾やあいまいさがあり、いろいろな解釈ができる。そのため一途に解釈を追及する中から科学、資本主義といった一見相容れないようなものも生まれてくる。
相容れないように見えてそこには見えざる神の創り給うたはずの自然の法則を希求する姿、見えざる神の手の万能に身をゆだねる市場主義、資本主義といったように“一神の存在を前提”とすればこその姿勢が貫かれている。

対してイスラムではその解釈や行動をこと細かく規定する法典を有しているがゆえに一途な追及は法典の解釈の段階で留まってしまう。このことが当初は先行していた文化や文明がやがてキリスト教圏の後塵を拝するに至った原因なのだと。

一神教は民族の紛争や興亡が絶えず、一途にに信じて寄り添う何かが無ければ団結もアイデンティティの維持も出来ない環境の中でしか生まれないものであり、島国として孤立し遂に異民族に踏みにじられることもなかった日本では一神教は芽生える機会はなかったとも・・・

ですが今、そんな一神教が益々グローバル化し互いに深く接せざるを得なくなった現代社会において、初めて異種の宗教と“一方的な支配ではなく対等”にかかわらざるを得ない時代を迎えている。
そして一神教のこうした特徴を隠し持った近代の西欧的仕組みと今まで以上に関わらざるを得ないこちら側としても、その背後に潜む一神教的なものについては深い理解が必要なのだということのようです。
        ・・・なお、▼一神教と資本主義の関わりといったことについては別掲記事も・・・

▼ところで理解しようとするとキリスト教の中でもとりわけわかりにくい“聖霊”についてはおもしろい記述が出てきます。

この本は共著者二人の間の突っ込みと受けの会話として構成されているのですが“聖霊”については、
「聖霊がイエスが昇天した後に残って漂う余韻、残り香、気配のようなものだとすると、それは日本の神様のようなものなのか」といった意表を突く突込みに対して、
「日本の神は人々が集う場を気配として支配するのに対して、聖霊は一人一人が直接神に対して垂直方向に感じる気配なのだ」と・・・(2012.1.11)

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by C_MANN3 | 2006-04-16 00:00 | ユングのすそ野の 風景 | Comments(0)
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