◆一神教と「ひまな神」・・・

“未開な多神教を洗練進化させると崇高な一神教になる”といった宗教観にはもやもやとした違和感を覚えていたのですが、そのもやもやを一気に晴らしてくれる絶妙な“切り口”に出会いました。

それは島田裕巳さんの「日本人の神はどこにいるのか(ちくま新書351)」に出てくるのですが、その切り口はたった一言、「ひまな神」・・・

邪なものをそぎ落として崇高ですべてを超越した最高の一神を追及すると、それはもはや人々には近寄りがたいものとなり、結果として誰も近寄らない、手持ち無沙汰で暇な「ひまな神」となる。で、人々は日常の悩み事やよりどころを副神に求めるようになる。副神はたいていの場合、役割を分担していて一人とは限らない神々となるのだと・・・

結局のところ現実の世界で人の役に立つ宗教は一神教といえども、名前や表現はともかく「唯一神+それをとりまく多神」で構成されざるを得ない。

キリスト教ではこのとりまく神々は数々の聖者やマリアであったりする。多神教と言われることが多いヒンドゥー教の神々は実は最高神ブラフマンの形を変え役割分担をした化身。だが人々はそんなことは気にせずに目の前のいろんな神を日常的に崇め、慕い暮らしている。

八百万の神で多神教の最たるものと言われる日本の神道も実はその神々の背後に漂う何かを感じている。それに名を付けあとは化身と言ってしまえば一神教を構成できなくもないが、その漂うものに敢えて名を付け、特別な扱いをする必要を感じていないだけということのようです。


なんか世界中の宗教を串刺しにして一挙に展望ができそうな切り口ですが、そうなると、いつもの悪い癖でいろんな妄想が湧いてきます。

まずは一神教の場合・・・
人に慈しみを与える雑務を離れて「ひまな神」となった唯一神は暇に任せて天にも届く尖塔がそびえる寺院を林立させ、父性原理の強力な教理の旗をたなびかせながら聖戦、十字軍と手段をいとわず世界制覇に邁進するようになる。言ってみれば“唯一神、閑居して不善を成す”といったところでしょうか。

そして日本の神の場合・・・
どうやら日本では神々の背後には唯一神を置くことを避け、河合隼雄さんの中空構造論にもあるようにそこは神聖な空の場としてとどめてきた。そんな日本がただ一度そこに唯一神を祭り上げ、その威光を広くアジアの全土に広げようとした時代があった。もちろんそれは惨憺たる結果となりましたが、やはり日本には名や主張を持った唯一神は向かないということだったのかもしれません。


▼ところでこの「ひまな神」を提唱しているのはルーマニアの宗教学者、ミルチア・エリアーデとのこと。以前からこのブログでも触れていて気になっていた学者なのですがこんなところで出会えるとはこれもまた感動です。

このエリアーデについてはこの本の第2章でくわしく紹介されています。ルーマニアで生まれ、インドで宗教学を修めた後はしばらく祖国で教壇に立っていた。だが大戦中は文化担当の外交官として国外にいたため、やがて迎えた終戦で共産化した祖国への帰国を拒否してそのまま亡命生活に。その後はシカゴ大学で教鞭をとりつつ古代の民族宗教を始め世界中の宗教を包括的に扱った「世界宗教史」と「宗教百科事典」の編纂を開始する。

そんな彼が実は日本の伝統宗教にも興味を持っていながら、ご自身として編纂に加えることはできないまま亡くなったとのことですが、自国の文化や伝統を世界に通じる言葉で表現することが苦手な日本人に代わってエリアーデが縦横無尽に語ってくれていたら日本の神や仏はどう扱われていたのでしょうか・・・(2012.9.30)

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by C_MANN3 | 2006-04-12 00:00 | ユングのすそ野の 風景 | Comments(0)
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