◆無意識と知識、せめぎ合いと共生。

相変わらず、何を大袈裟なと言われそうな雑感ですが・・・

自然現象と理系の科学、心の深層と心理学・・・学としていろいろと解ってくると自然も心の深層も“本当によくできているすばらしい世界”と言った感動を呼ぶ一方・・・わかったつもりで調子に乗ると“思わぬシッペ返し”。人類が繰り返してきた感動と戸惑いの歴史ということでしょうか。

科学自体はとりたてて意図を持たず、あるがままの自然への感動や好奇心から発達していくが・・・その成果が人の思惑を生み、工学を持って自然を操作しようとすると・・・最初は意図どおりの小さな成果を積み重ねて感動の世界が広がりますが・・・規模が大きくなるにつれやがて自然の反撃を招く。

たとえば中央アジアで繰り広げられた旧ソ連邦による大規模な灌漑農業。当初は農業生産の増大をもたらしたかもしれませんが、やがてアラル海にみられるように河川流入量の減少で湖の大幅な縮小を生み、灌漑地も大規模な砂漠化や塩害を生じるに至っている。
塩が滲み白く広がる広大な砂漠・・・そこに点々とうずくまる船の残骸・・・なんとも不思議な風景です。

規模を誤ると、自然改造計画と称して結果的には砂漠を作っていく。企業組織ではスピードを誤ると、風土改革といって従業員の心に砂漠を作っていく。いずれも蓄えた知識が何かを変えることができる、やってみるとうまくいった、だったらもっと大規模に一気にと思う結果です。

似たようなことが無意識と意識の境界線でも起こるのかもしれません。
積み上げた知識は少しずつ無意識を侵食する。知識が無意識をあるがままに操作できると思って包囲したとき、無意識はおそらく知識を超えた反撃に出る。個人の心の中でも一歩間違えば、砂漠は生まれる・・・

自然科学や工学の世界でもただただ利用しつくすのではなく、共生,共棲を旨とした生態学的アプローチが言われるようになってきつつありますが・・・無意識についても知識を持って何かを変えるというよりは、知識と理解をもってそれと共生することが限度と考えるべきなのかも・・・

本当の無意識とは別のものとして、意識化したつもりの(想像上の)無意識ならこう振舞うに違いないといった路線で意識的に行動することは修練を積めば可能な気もします。
ですが、意識化したつもりの「無意識への知識」は結果としての(真の)無意識の挙動は説明できたとしても、無意識の次の一手が事前に読めるかというと・・・どうなんでしょうか。(2005.2.18)
by C_MANN3 | 2007-06-12 00:00 | ユングのすそ野の 風景 | Comments(0)
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