◆井筒さんの「文化と言語アラヤ識」・・・

この上(にスクロール)のいくつかの記事で唯識のアラヤ識について話題にしていますが、アラヤ識といえば・・・イスラム学者の井筒俊彦さんが「言語アラヤ識」ということを言っておられるようです。

ユングは心を『意識』『自我』『無意識』からなる三層の構造体としてとらえますが、唯識ではこの三層を『意識』『マナ識』『アラヤ識』と称し、このアラヤ識を種子が貯蔵されるところだと。
では種子とは何だということになるのですが、井筒さんは・・・『意識』や『マナ識』が意味分節機能を持った言葉によって構成されているのに対して『アラヤ識』の種子とは今だ分節を持たない意味可能体であり、それを蓄えるところとしてのアラヤ識は「言語アラヤ識」とも呼ぶべきものなのだと・・・

井筒俊彦著「意味の深みへ」、岩波書店1985年刊。
その第二章が「文化と言語アラヤ識」、副題が“異文化対話の可能性をめぐって”ということなのですが、勝手な要約をさせていただくと・・・

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文化は各々の民族の思考や行動に対して規制力を持つが、それは言語によりカオスを秩序付けるメカニズムでもある。

言語はコミュニケーションの手段であるだけでなく、意味分節の体系であり、二つの異なる言語共同体は異なる文化を持ち、異なる現実を経験している。

言語は意味分節単位の有機的連合体として強固な枠組みを形成し表層部を覆っている。したがって表層のみに生きるなら人は紋切り型の思惟、感情、行動に縛られざるを得ない。

だが言語はその下に深層構造を持っている。そこでは言語の意味は流動的、浮動的、未定形であり今だ「意味可能体」の状態にある。意識構造の深層に働くこの内部言語は明確な分節性の無い「呟き」のようなもの。そしてこの深層構造が『言語アラヤ識』であり、「呟き」が「種子」なのだと・・・

人が日常見聞きする全ての言葉や感覚、それにより想起する心の動きはもれなく深層部に痕跡を残し、それがカルマとしてアラヤ識に蓄積される。唯識では蓄積されたものが薫習により種子となるとされるが、種子はカオスの海で常に生起消滅を繰り返す泡沫のようなもの。
したがって表層部の強固に固定された意味ネットワークとは異なり、深層部の種子、意味可能体は本性的に柔軟性と可塑性を持ったもの。

そこでこの章の副題、“異文化対話の可能性をめぐって”ということにもどると、異文化の接触がこのレベルで起こるなら文化テクストの織り直しは可能ということになるのですが・・・

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ところで・・・ユング、唯識、言語アラヤ識、そしてクオリア・・・コツコツ拾い集めた断片的な知識をわが心のカオスに投入すると、なんとなく心のイメージが浮かび上がってきます。それを無理やり図にするとこんな感じになるのですが・・・
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なお井筒さんのこの本にはほかにも興味深い話が満載です。たとえば第八章の「渾沌」・・・“無と有のあいだ”に関する短い文章なのですが何度読み返しても飽きない味わい深い名文です。
またこのブログでは別掲記事で「シーア派のイスラーム」等の章についても記載していますので、あわせてご参照ください。(2008.7.21)
by c_mann3 | 2006-08-14 00:00 | ユングのすそ野の 風景 | Comments(0)
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