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◆ユングと唯識:巨大な心の構造仮説

“ユングほど壮大でドラマチックに心の世界を表現する舞台仕掛けを構築した人はいない”と常々思ってきましたが、一方において「唯識」の“アラヤ識”も何となくユングの普遍的無意識に勝るとも劣らぬ表現体系ではないかとの思いがもんもんと募っていました。

科学的心理学の台頭もありユングについては不合理とか、非科学的とかいった話が付きまとっていますが、ユングにしろ、唯識にしろ、これほど人の知性が真剣に心の構造解明に取り組んだ体系のいったいどこが非科学的なのか?としか思えません。

変な話ですが、世間一般が科学的と認める「認知科学」では見えないところに数理的なシミュレーション仮説をおき、ユングも見えない世界に仮説(虚構)を張り巡らせる。そして何れもがその仮説で人間の挙動や心の動きがどの程度説明できるかを追及する・・・そういう意味で両者には極めて強い類似性を感じてしまいます。

両者の違いは仮説を数式で表すか物語で表すかだけの違いであり、それは本質的な違いではない・・・などとも思うのですが。

・・・ということで、ふらりと入った本屋で立ち読みついでに以前から気になっていた「唯識」の本をとうとう買ってしまいました。題して「大乗仏教の深層心理学」、岡野守也著。・・・詳細は、次ページに。(2005.2.14)
by c_mann3 | 2006-08-20 00:00 | ユングのすそ野の 風景 | Comments(0)

◆ユングと唯識:種々比較すると・・・

アラヤ識、確かに面白く、理解しやすく、著者の言うようにユングなんかになじんでいる人には読んでいてほとんど抵抗がない、といった感じです。

▼まず心をどういう構造体として捉えているか、表層から深層に向かって列記すると・・・
 ・ユングでは・・・『意識』『自我』『無意識』『普遍的無意識』
 ・唯識では・・・・『意識』『マナ識』『アラヤ識』『アマラ識』
ということで、個々の意味するところは多少違うにしても,驚くほどよく似ています。
「マナ識」は別名「分別識」といって、本来ひとつのものを言葉で分別していくことで執着を生む、自我のネガティブな側面とよく似た執着の源。
「アラヤ識」は無意識に相当しますが、基本的にはその人自身を超えた輪廻転生の源、やはり個人的なものと普遍的なものを含むようであり、特にその中の「アマラ識」は菩薩になりうる「淨」の集まった普遍的なところということです。

▼で、誰がために何を目指すか・・・
ユングで目指すものは・・・自己実現、あるいは個性化、いや実は何も目指してはいない?などと議論してきましたが、唯識ではずばり涅槃を目指すということになります。
ただ小乗仏教の涅槃が自分自身の涅槃を目指すのに対して、大乗の唯識では、涅槃の境地に達しても涅槃に入らず、世俗に残り救済に勤めるのが最高の涅槃ということのようであり、『十牛図』の悟ったのち街に帰り救済に当たる原型はこれなのかもしれません。

▼ならば悟りに達するプロセスは・・・
ユングでは無意識の領域から浮かび上がってくる各種の元型を自我がとりこみ、より完成した形の自我を形成していくことが個性化ないし自己実現のプロセスということになりますが、唯識では本来、不浄なものが充満しているアラヤ識を修行により浄なるものに置きかえていくことが涅槃への道ということになります。

▼ではそれを目指す修行とは・・・
ユングはもともとセラピストやカウンセラーがクライエントに対して働きかけるといったところから出発していて、自身が何かを目指して積極的に修行といったニュアンスは希薄です。通常は無意識からの原型は状況により補償やエナンティオドロミアといったエネルギーフローとして沸いてきてしまう、ないしはカウンセラーが必要に応じて井戸水をくみ上げるようにくみ上げるといった感じで、クライエント自身は、まな板の上の鯉といった感じはいなめません。

対して唯識では、「多聞薫習」そして「瞑想」。正しい教えを多く聞く、それが薫製の煙が滲みこむようにアラヤ識の中に蓄積し、浄なる種子となり、やがてそれが芽をふく。悟りとはアラヤ識の中の不浄な種子を如何にして浄なる種子に置き換えていくかということのようです。
「瞑想」とは座禅ですが、唯識の座禅は無念無想の方法だけでなく、言葉やイメージを使って思いつめることでアラヤ識の浄化を図る一種のイメージトレーニングのようなものもあり、なるほどといった感じです。

以上ですが、ユングがたとえ修行の書ではないとしても、ユング理論に精通し、それを心の迷路を歩く地図とすることでセルフカウンセリングし、自己実現を目指す・・・といったことには期待が持てる、それもユングの魅力のひとつなのではないかと思います。(2005.2.14)
by c_mann3 | 2006-08-18 00:00 | ユングのすそ野の 風景 | Comments(2)

◆ユングと唯識:大乗もいろいろ・・・

大乗仏教の理論書は「中論」、「摂大乗論」、「成唯識論」が代表三部作とか・・・
手元の本によると、「中論(中観)」は“空”の思想を完成させたもの。でそれが難解なので、“アラヤ識”という人の心の構造仮説を設けてその解説を行ったのが「摂大乗論」とか。
さらにそれを集大成し、韻文“唯識三十頌”を中核にしてまとめたのが「成唯識論」とのことのようです。
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で、前掲の岡野守也著《大乗仏教の深層心理学》は「摂大乗論」をベースにしたもの。大乗仏教が日本に入ったのは古く、奈良仏教として今日に続いているが、テキストとして最初に「成唯識論」が入り、それがバイブルとなってしまったため、「摂大乗論」は今日に至るまでほとんど注目されていないけれども、唯識の解説書としてはなかなかのものとか・・・

ところで、前掲の構造比較に際して記した「アマラ識」、これはユングとの対比の都合で列記しましたが、実は「摂大乗論」には含まれていないらしい。
「摂大乗論」のころは“まるで夏草のごとくむしってもむしってもあっという間にはびこる不浄の種子をひたすら浄の種子に植え替え続ける不断の修行”をしなければ涅槃には到達しないことからして、アラヤ識の中にあらかじめ“浄なる種子”が集まっているところなんてあるはずもなく、これは、後々に追加されたもののようです。

大乗仏教も時代とともにおおらかになり、修行、修行といわず、ただ念仏を唱えれば・・・、ついには死にさえすれば「仏」になれるという風に発達??していく過程でその理論的よりどころとして付加されたもののようです。

仏教も釈迦から始まりいろいろと変遷があるようで本当に面白いというか、ややこしい・・・といった感じですね。

なお、瞑想の一種「唯識観」をイメージトレーニングといったのは私の勝手な推測です。ですが、無念無想の座禅よりは理解しやすく、なんとなくユングの言う「能動想像」なんかに近いのではと思ったりもしています。 (2005.2.14)
by c_mann3 | 2006-08-16 00:00 | ユングのすそ野の 風景 | Comments(2)

◆井筒さんの「文化と言語アラヤ識」・・・

この上(にスクロール)のいくつかの記事で唯識のアラヤ識について話題にしていますが、アラヤ識といえば・・・イスラム学者の井筒俊彦さんが「言語アラヤ識」ということを言っておられるようです。

ユングは心を『意識』『自我』『無意識』からなる三層の構造体としてとらえますが、唯識ではこの三層を『意識』『マナ識』『アラヤ識』と称し、このアラヤ識を種子が貯蔵されるところだと。
では種子とは何だということになるのですが、井筒さんは・・・『意識』や『マナ識』が意味分節機能を持った言葉によって構成されているのに対して『アラヤ識』の種子とは今だ分節を持たない意味可能体であり、それを蓄えるところとしてのアラヤ識は「言語アラヤ識」とも呼ぶべきものなのだと・・・

井筒俊彦著「意味の深みへ」、岩波書店1985年刊。
その第二章が「文化と言語アラヤ識」、副題が“異文化対話の可能性をめぐって”ということなのですが、勝手な要約をさせていただくと・・・

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文化は各々の民族の思考や行動に対して規制力を持つが、それは言語によりカオスを秩序付けるメカニズムでもある。

言語はコミュニケーションの手段であるだけでなく、意味分節の体系であり、二つの異なる言語共同体は異なる文化を持ち、異なる現実を経験している。

言語は意味分節単位の有機的連合体として強固な枠組みを形成し表層部を覆っている。したがって表層のみに生きるなら人は紋切り型の思惟、感情、行動に縛られざるを得ない。

だが言語はその下に深層構造を持っている。そこでは言語の意味は流動的、浮動的、未定形であり今だ「意味可能体」の状態にある。意識構造の深層に働くこの内部言語は明確な分節性の無い「呟き」のようなもの。そしてこの深層構造が『言語アラヤ識』であり、「呟き」が「種子」なのだと・・・

人が日常見聞きする全ての言葉や感覚、それにより想起する心の動きはもれなく深層部に痕跡を残し、それがカルマとしてアラヤ識に蓄積される。唯識では蓄積されたものが薫習により種子となるとされるが、種子はカオスの海で常に生起消滅を繰り返す泡沫のようなもの。
したがって表層部の強固に固定された意味ネットワークとは異なり、深層部の種子、意味可能体は本性的に柔軟性と可塑性を持ったもの。

そこでこの章の副題、“異文化対話の可能性をめぐって”ということにもどると、異文化の接触がこのレベルで起こるなら文化テクストの織り直しは可能ということになるのですが・・・

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ところで・・・ユング、唯識、言語アラヤ識、そしてクオリア・・・コツコツ拾い集めた断片的な知識をわが心のカオスに投入すると、なんとなく心のイメージが浮かび上がってきます。それを無理やり図にするとこんな感じになるのですが・・・
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なお井筒さんのこの本にはほかにも興味深い話が満載です。たとえば第八章の「渾沌」・・・“無と有のあいだ”に関する短い文章なのですが何度読み返しても飽きない味わい深い名文です。
またこのブログでは別掲記事で「シーア派のイスラーム」等の章についても記載していますので、あわせてご参照ください。(2008.7.21)
by c_mann3 | 2006-08-14 00:00 | ユングのすそ野の 風景 | Comments(0)

◆トロツキーと唯識

以前、▼アドラーの記事の中で話題にしていたトロツキーと唯識の話ですが・・・

果てしなく広がる田園地帯で、もし自分の区画だけ害虫駆除をしたとすると・・・仕事が終わり帰路につくころには、おそらく回りの畑から越境してきた害虫であっという間に元の木阿弥・・・

トロツキーの「永久革命論」は、ロシアの革命が起爆剤となって全世界に革命の輪が広がるといった楽観的な未来観であったと同時に、後進国ロシアで一国のみが革命に成功したとしても、それを維持するためには世界中の国々での革命成就を支援し、連帯しなければ、周りの国からの不浄なものの侵食であっという間にもとの木阿弥という危機感も併せ持ったものではなかったか・・・

それは唯識で言われるように、不浄の種子がぎっしり詰まった阿頼耶識を、「多聞薫習」、「瞑想」で浄なる種子に置き換えていく果てしないプロセスが、気を緩めると一瞬にして回りの不浄なものでふただび覆い尽くされてしまうといった情景と重なります。

トロツキーはこのプロセスに「永久」という形容をしましたが、唯識ではこのプロセスを完成させ菩薩となるには数カルバの時間が必要と言います。
このカルバという単位、実は43億年という気の遠くなるような期間で、しかもそれは徹底的な破壊と創造のサイクルであるマヌ期を14回繰り返したもの・・・ということは単に時間がかかるというだけでなく行きつ戻りつの紆余曲折を経てたどり着くということのようで・・・

なんてことを言われると最終革命を成就することも、浄なる種子で阿頼耶識を満たして涅槃に至ることも・・・気の遠くなるような時間軸の上での話しのようです。

革命雑感のついでにもうひとつ・・・文化大革命について・・・
トロツキーが外からの不浄の侵食による革命の崩壊を危惧したのに対して、毛沢東は放っておくと内なる世界で人民の上下の分離分裂が芽生えやがては元の木阿弥になると危惧したということかも・・・ここでも果てしなく執拗な下放、同化の努力を続けなければいずれ・・・といった話になってしまうのが・・・不思議ですよね。

ユングのエナンティオドロミアや、阿頼耶識は心の中を表現したもののはずですが、人類の歴史や世界を思うときのモデルとしても最高!の概念ですね。(2005.2.25)
by c_mann3 | 2006-08-12 00:00 | ユングのすそ野の 風景 | Comments(0)

◆輪廻転生は、もしかして救済?

前掲「トロツキー・・・」のところでも書きましたが、悟りに要する時間が43億年もの長さのカルバで数個分と言われると・・・以下は、ため息をつきながら思った雑感です。

仏教では輪廻から如何に抜け出すかが課題であり、解脱して涅槃に至るなどといいますが、そのためにはやっと積み上げたものを一挙に崩されるといったことを何回も繰り返しながら43億年が必要・・・これってもしかして、たかが人間一人の一生程度で悟るなんてことは絶対に許さないといっているのと同じではないか・・・

この途方もない時間軸を前にして呆然と言った感じですが・・・ふと思い始めたことは・・・仏教では解脱しようとしている輪廻転生というものが、実は人間にとっての救済そのものではないか?・・・ということです。

自分の一生では悟れないといって悲観はするな。それはあなたの意識や肉体のことであって、あなたの薫りを含んだ阿頼耶識や内なる無意識は、たとえあなたが何も得られぬまま朽ち果てたとしても輪廻転生を繰り返し、43億年も待てば立派に涅槃に到達するのだから、安心しなさい・・・ということかも。なんてことを思うと、何とやさしくおおらかで慈悲に満ちたインドの心と思えないでもありません。

こんな思いにふけっているといつも突然、絵画的な風景が浮かんでくるのが私の奇妙な習性ですが・・・

外国の海辺の都市の郊外に運河を背に並んだ街並みがありますよね・・・表玄関は道路につながってはいるが家を出てしばらくすると袋小路に入ったり、途切れたり・・・これが意識への世界。他方裏庭に止めたヨットに乗り流れを下るとやがては43億年のかなたにまで続く大海原に至る・・・運河や河に面した裏庭は永遠の無意識に通じる世界なのかもしれません。

b0050634_18504498.jpgそして面白いことに・・・シドニーなんかの西洋人にとっては裏の運河はたまの安らぎ用、対してタイなどに見られる東洋のそれは河に向かうほうが生活の中心・・・日ごろから心はすでに43億年のかなたに通じつつ生きている・・・・なんて思ったりして・・・変な雑感で、失礼いたしました。(2005.2.25)
by c_mann3 | 2006-08-10 00:00 | ユングのすそ野の 風景 | Comments(0)

  ・・・次は・・・

      ◆次は「ヒンドゥーと四住期」について・・・⇒⇒


by C_MANN3 | 2006-08-01 00:00 | ユングのすそ野の 風景 | Comments(0)