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◆ペルソナと三位一体・・・

ペルソナはユングの重要概念のひとつなのでしょうが・・・最近、何気なく覗いていたWikipediaで恐ろしいことを発見してしまいました。

ユングを解説した本では、ペルソナの語源はラテン語の「仮面」に由来するなどと書かれていて・・・あ~そうなんだ!とそれなりに理解したつもりではいたのですが、なんとキリスト教の重要教義「三位一体」の「位」もラテン語でpersonaと言うらしいですね。

父なる神、その子イエス、そして聖霊はそれぞれが完結した「位格」を持っているが実体としては同質で一体不可分のもの・・・これが三位一体ということなのですが、この「位格」がラテン語ではpersonaだとか。

ユングのペルソナが「仮面」由来と言われてしまうとなんとなく“表を取り繕い何かを覆い隠す仮の姿。内面とはまた別のもの”といったイメージがしてしまうのですが・・・「三位一体」と類似の概念だとなると・・・ユングのペルソナは人としての存在のひとつの現れ、ひとつの現れではあるがそれは自己や普遍的無意識と不可分で一体のもの・・・といった崇高なイメージが漂ってきます。

なるほど、もしかしたら「三位一体」のイメージをかぶらせるとユングのペルソナの理解が一歩前進するのかもしれない・・・なんてことを思ったりもします。

ユングのペルソナ・・・それは居場所としては人の意識の表層にあって外界と対峙しいているところなのですが・・・意識の意図によって任意に装える仮面のようなものではなく、もっと心の深層からにじみ出てくる何かによって形成されているもの・・・

ところでペルソナと心の深層とのかかわりについては、例えば男性的なペルソナを形成すると心の中ではアニマ的なものが深層に沈んでいくといったこともいわれ・・・だったらペルソナは元型の作用かといったことにもなるのですが、このあたりについては林道義さんのホームページに《ペルソナは元型か》と題した貴重な記事が・・・
by c_mann3 | 2006-11-20 00:00 | ユングのすそ野の 風景 | Comments(0)

◆ユングは四位一体・・・

三位一体の「位」はラテン語でpersona、そう思うとユングのペルソナにもまた違うニュアンスが・・・などといったことをYAHOO掲示板のユングコーナーに書いていたところ、ある方(chibowaさん)から・・・  

>ユングは三位一体ではなく四位一体を提唱、それは“父と子と精霊と・・・悪魔”で構成され、ユングの著作の『ヨブへの答え』等に記載が・・・

といったお話をいただきました。
 
日頃から不勉強で『ヨブへの答え』も読んでいないままなのですが、ユングが三位一体では我慢できなくて四位一体論を唱えているというのは面白いですよね。検索で調べるといろんなものが出てきましたが、その中にこんなものもありました。

http://www.l.u-tokyo.ac.jp/postgraduate/database/2006/456.html

本来、人にも神にも善悪は同居しているもの・・・その善のみを切り取って構築し、悪の居場所を抹殺した教義の体系は誤りということのようなのですが・・・「ヨブへの答え」はやっぱり必読書のようですね。

実は本も読まないままに・・・上記のリンクに出てくる最高善についてはこのブログでも勝手なことを書かせていただいておりますが、読み返してみると一応、善悪両面を備えたものとして書いておりますので、当たらずといえども遠からずといったところなのかもしれません。
ところで三位一体にまつわる雑感をいくつか・・・

◆中欧の街角で・・・

三位一体の中でも最も怪しいのが聖霊ですが・・・今年の「聖霊降臨祭」は5月27日、カソリック圏ではこの日を挟んで三連休の国が多いとのこと。
実は先週の一週間、ほんの駆け足でチェコ、スロバキア、ハンガリー、オーストリア・・・中欧四ヶ国を巡ってきたのですが、ちょうどこの「聖霊降臨祭」の連休とオーバーラップ。ショッピングセンターや美術館の類は閉店が多く、おかげで今回の旅行がよりピュアな観光になった気もします。

b0050634_2254306.jpgところで中欧のこうした国には、あちらこちらの街角に三位一体像があるらしいんですよね。そのうちのひとつの三位一体像の前に立ち、しげしげとモニュメントを見上げては見たのですが・・・どの部分が神で、どこが聖霊を表したものなのか・・・知識不足の私には結局よくわかりませんでした。

モニュメントだけでなく、絵画やイコンの形でも三位一体は表現されているようですが・・・キリストはともかく、神や聖霊を何によって象徴させるかでいろいろなバリエーションがあるようです。

◆中沢さんの「対称性人類学」では・・・

ユングは三位一体にあえて悪魔を同格で追加し、四位一体論を展開したようですが・・・宗教学者の中沢新一さんはまた別の方法で悪魔を取り扱っています。
中沢さん著「対称性人類学」によりますと、キリスト教では三位一体の中の聖霊(スピリッツ)の部分に、人で言うなら無意識の領域と同じように善も悪も、生も死も、あらゆるものが分離できない一体のものとしてたっぷり隠されている・・・これによりキリスト教は一神教でありながらも多神教にも似た成分を潜め持った特異なものとなっているのだと・・・

中沢さんの話はこれを切り口に現代の国際情勢にまで広がります。
同じ一神教であるイスラムが利息が利息を生むことを固く禁じているのに、キリスト教の土壌からは果てしなく利益を追求する資本主義が生まれ、しかもそれがグローバルスタンダードの名のもとに世界を席巻しようとしている。こんなことができるのは三位一体の聖霊の中に異質なもの(悪魔)がビルトインされているからだ。

キリスト教、資本主義、グローバルスタンダードの一神教連合が今人類を窮地に落としいれようとしている。それに対抗できるのは(悪魔を抑圧せず見える形で存在させ、それと調整できる)多神教をベースにしたものしかない!・・・と恐ろしいところに話が進んでいきます。

    なお中沢さんの「対称性人類学」については別掲記事が・・・

ユング、ペルソナ、三位一体、抑圧された悪魔の爆発・・・いろんな話をつなぎ合わせていくとどんどん深みに入っていきそうで、大変ですよね。(2007.6.7)
by c_mann3 | 2006-11-18 00:00 | ユングのすそ野の 風景 | Comments(0)

◆ペルソナ・・・チャン・ツィイーの仮面

中国映画、「女帝・エンペラー」が封切られ上映されています。
チャン・ツィイーが主演ということで覗いてみると・・・(二つほど上にスクロールしたところから)ユングのペルソナで三位一体とか四位一体などと書いていた矢先に・・・なんと偶然にも、仮面がモチーフのドラマでした。

唐王朝滅亡後の古代中国のさる国で、ともに剣舞に励んだチャン・ツィイーと皇太子は慕いあう仲でした。ですが、チャン・ツィイーは美貌のゆえに皇后に、そして皇太子は隠遁し仮面舞踊に没頭。・・・だがやがて皇帝はなぞの死を遂げその弟が皇帝に、そしてチャン・ツィイーは否応も無く新皇帝の后に。・・・新皇帝を亡き者にし密かに慕う皇太子を王位につけようとするチャン・ツィイー、一方の皇太子は父の仇をと敵意をあらわにするが人前では常に仮面を・・・

そうした中での会話・・・
「仮面ばかりでどうして顔を見せないの」
「仮面劇の極意は仮面で喜怒哀楽を表現することなんだ」
とうそぶく皇太子にチャン・ツィイーは
「あなたには失望したわ。極意は(私のように)生身の顔を仮面にすることよ」と・・・

たった数十秒のせりふで記憶も心もとないですが・・・この会話、ユングのペルソナの本質を鋭くついてるんじゃないかと・・・
ペルソナは心の中身とは無関係に脱着できる仮面などではない。意識や無意識と三位一体で不可分の表情や立ち振る舞いを仮面にするには強い思いと心の再編成が必要。

まるでギリシャ劇を思わせるストーリーと思っていたらなんと原案が「ハムレット」だとか・・・そういえばギリシャ劇はユングの元型モチーフの宝庫なんですよね。

それにしても一連のチャン・ツィイーの中国映画は、とにかく様式美、色彩美、そして風のように自在に舞う流動美が特徴、しかも中国の歴史を舞台にはしていてもギリシャ劇を思わせる仕立てのものが多い。多用されるワイヤーアクションや高速度撮影も、竹林や宮中を背景にしなやかにうねる肢体や空を舞う衣装の流動感のせいか、ハリウッドのCGに比べると違和感がない。

ハリウッドは行き詰まりつつあるといわれるなかで、独自の文化を背景に台頭する中国や韓国の映画には新鮮な訴求力がありますよね。伝統に根ざしたローカルな独自性は極めれば普遍性を持つ・・・ハリウッドだけがグローバルスタンダードじゃないってことにつながっていけばいいのですが・・・(2007.6.12)

「女帝・エンペラー」の公式サイト・・・http://jotei.gyao.jp/・・・はリンク切れです。
代わりにこちらを・・・http://eplus.jp/sys/web/cinema/cinemas/10.html
by c_mann3 | 2006-11-16 00:00 | ユングのすそ野の 風景 | Comments(0)

◆ダ・ビンチコード・・・

ダ・ビンチコードの映画が封切られ、テレビの関連番組や関連書籍の出版がにぎわっています。
それに対峙して世界各地でこの映画の上映反対の運動も盛り上がり、ついに中国では上映禁止となったとか・・・

以下は映画ではなく、関連情報での雑感ですが・・・

イエスには一人の女性が寄り添っていた・・・イエスの死後ヨーロッパに渡ったその女性、マグダラのマリアはやがてイエスの子サラを出産、二人の存在は各地で信仰の対象として受け継がれていく・・・

敬虔な信者の方々には許しがたい話だとしてもわれわれのような立場の読者には、生き生きとしたイエス像が浮かび上がってくるようで新鮮です。

“Q資料”を扱ったバートン・L・マック著「失われた福音書」ではイエスが犬儒派の賢者として描かれていて、マリアの話は出てきませんが、そうした女性が寄り添っていたとしても不思議ではない雰囲気を感じてしまいます。

いろいろな福音書についてはこんなサイトも・・・
 http://www.godsimmediatecontact.org/kannon/news/no81/d-1.htm
 この記事には現在リンクがつながりません。 

このサイトのタイトルは「失われた書」・・・マックの「失われた福音書」とタイトルは似ていますが、文面の趣は全く異なります。次々と発見される古文書も読み解く人の立場でいろいろな色彩を帯びるということなのでしょうか・・・

b0050634_0543546.jpg当初は娼婦として扱われていたマグダラのマリアも1969年、バチカンにより聖女として認定されました。キリストを慕う20億の信者の思いの軌道修正は容易ではないでしょうが、この内の10億のカソリックを率いるバチカンには調査部門があり50年、100年といった長期にわたる調査や審議を続けては、新たな見解を打ち出し続けているとか・・・

いろいろな福音文書が発見され、聖書研究が積み重ねられていくと・・・いずれバチカンがこうしたことも認める日が来るのかもと思ったりもします。たとえそうした日が来たとしてもそれで“物語福音書”の物語としての価値が損なわれたり、イエスの輝きが失われたりといったことにはならないですよね。(2006.6.15)
by c_mann3 | 2006-11-14 00:00 | ユングのすそ野の 風景 | Comments(0)

◆ダ・ビンチコード《続》・・・

前掲のような記事を書いたこともあり・・・結局ダ・ビンチコードの映画を見てしまいました。

ルーブル美術館の館長が殺害される直前に残した暗号を、宗教象徴学の教授ラングドンと司法警察暗号解読官ソフィーが解明していくことでドラマは進展していくのですが、ソフイー役のオドレイ・トトゥがなかなかの好演でしかもチャーミング。ですがこのソフィー、ただの暗号解読官なんてものじゃないってことがだんだん明らかに・・・・

ところで、現実の世界でもし血統書付のイエスの末裔が現れて・・・しかもその人が透き通るように透明感のあふれる魅力的な女性だったとしたら・・・教皇を差し置いて崇拝はともかく、敬愛しようとするキリスト教の信者がきっと続出・・・そのとき教会はいったいどんな対応をとることになるのでしょうか。

だからこそ、そんなことにならないように二千年の昔に歴史を消し去り、塗り替え、イエスは人の子ではなく、人の親でもない神の子ということにしたのかも・・・


そんな妄想を抱きながら、続いて娘が読んでいた原作本を横取りしパラパラと目を通していると・・・巻末の解説に興味深い話が出ていました。

>中世から近世にかけてのヨーロッパでは宗教は三極に別れていた・・・
>いわゆるカトリックを信じていたのは中間層の一般市民であり、知識階級はより深い世界認識を求めて科学や魔法に傾倒し、下層の人たちは伝統的な母系社会の暮らしの中で土地の農業神を信仰する生活を継続・・・
>そして上下の二つの層は、最大勢力のカトリック信者から異端として排除される中で生き続けるために秘密結社などの活動に走っていったのだと・・・

なるほど!そうだったのか・・・上下二層の異端が屈せずに生きながらえたからこそ、近代科学では世界の先陣を切り、一方において民話も神話もたっぷりと継承し続けた彩り豊かで多様な今日のヨーロッパがあるのかも・・・などと妙に納得できてしまうから不思議です。

ところで・・・異端の効能についてはこのブログでも▼あちら▼こちらにいろんな形で・・・(2006.6.28)
by c_mann3 | 2006-11-12 00:00 | ユングのすそ野の 風景 | Comments(0)

  ・・・次は・・・

      ◆次は「9.11とイスラーム」について・・・⇒⇒


by C_MANN3 | 2006-11-01 00:00 | ユングのすそ野の 風景 | Comments(0)