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◆無意識に導かれるWATARIDORI

意識もまた無意識の表れである・・・

延々2時間、ひたすらWATARIDORIが世界中を飛び回っているだけという不思議な映画を見てしまいました。
極北の地で短い夏の合間に生まれた雛が、やっと飛べるようになったばかりの状態で、何千キロという長い道のりの旅に出る・・・おそらくどこへ行くのかも、なぜ行くのかも自覚も意識も無いままに、何かに突き動かされるように危険な旅に出る。行き先を知っているのは鳥自身ではなく、体内の地磁気センサーという名の無意識。

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とんでもなく危険な場所で羽を休めて命を落とすことがあっても、なぜかそこに立ち寄ってしまう。途中東ヨーロッパの湖岸のヘドロ渦まく公害地帯に舞い降り、油の汚泥にまみれて飛べなくなってしまうシーンがあったりしますが、視覚も知覚も(人でいうなら意識か)あるはずの鳥が、なぜかそこを回避できずに吸い寄せられるのは、そこがもしかしたらはるか昔の世代から立ち寄っていた、かつての楽園の後なのかもしれません。

まる2時間、見ていて脳裏によぎったことのひとつは・・・“意識もまた無意識の表れである”との言葉でした。
こと鳥だけでなく、意識で恣意的に生きているつもりの人もまた、実は無意識に突き動かされて世界放浪の旅を続けている。危険であっても避けようとはしない。小ざかしく生きたとしても自然の猛威の前にはひとたまりも無い・・・考えれば考えるほど、人はこのWATARIDORIと変わらない気がしてくるのが不思議です。

鳥と霊長類を同列視して何を感傷にふけっているんだ!と、割り切ることは簡単ですが・・・

そういえばアフリカで誕生した賢いはずの霊長類人類もまた、何かに突き動かされるように厳しい自然の極北を突き抜け、ベーリング海峡を越え、南米にまで至るWATARIDORIそっくりの大移動をしたからこそ、今日の世界人類がある・・・彼らの意識が合理的に緑豊かな楽園を求めて移動したのなら、極北を目指すのは解せない。

・・・などと考え始めると止まらなくなってしまいます。(2005.2.18)
by c_mann3 | 2007-06-20 00:00 | ユングのすそ野の 風景 | Comments(0)

◆そして・・・Oceans

壮大なスケールでひたすら鳥が飛んでいるだけの映画「WATARIDORI」から五年、今度はひたすら魚が泳いでいるだけの映画「Oceans」が公開されています。

おびただしい数の魚が生まれ、泳ぎ、壮大な食物連鎖の中で食べられ、そしてわずかに残ったものが再び大量の稚魚を育み、海中の輪舞は果てしなく続く。
いわしの大群が織り成すすざましい勢いの渦、そこを目指して突進してくる巨大な魚、そのために形を崩しその一瞬で多くの仲間を失っても、次の瞬間には再び何事も無かったかのようにもとのフォーメイションに戻る。

ダイナミックに見える生態系は実はデリケートな均衡、崩壊、再均衡の渦中にある。例えば気候の温暖化で海水温が少しずれただけでも生息域を変えざるを得ない種、消滅する種があったりして一時の乱れは見せるのでしょうが、そう時間をおかず再び新たな均衡点で壮大な乱舞の世界は続く。

今食物連鎖の頂点に立っている種が生存に有利かというとそういうものでもなく、そこで広がる世界には主役も脇役も無い・・・強いてにんまりとほくそえんでいるものがあるとすれば、形や種に関係なく、形や種を乗り換えながら保存されつづける生命のDNAそのものなのかもしれません。そしてそれは海に限らず、陸の生命も、人という種をも含めてのこと・・・

壮大でダイナミックなシーンに包まれて放心状態になる中でふと、“利己的な遺伝子”なんて言葉が脳裏をよぎりました。
いや、人には我があり自己がある・・・そう信じるのは勝手だが、今のところ本当に利己的に我を張り続けて成功しているのは遺伝子だけなのかもしれません。ただひとつの救いはそうして遺伝子に突き動かされ、マスとして輪舞する生命の織り成す風景は・・・なぜか美しいんですよね。


◆ところで・・・

この二つの映画、監督は同じくジャック・ペラン・・・先日、二つの映画の撮影風景がTVで紹介されていましたが、専用の撮影機材を開発し、鳥や魚の生態や挙動を熟知し意表をつくアングルで撮る。しかも待ち構えたり追っかけるだけでなく、何と鳥に機材やスタッフを追っかけさせて撮るといったことも・・・
ただ偶然を待って撮り編集したものではない、この映画の迫力の源の撮影風景もまた感動のドラマでした。(2010.3.20)
by c_mann3 | 2007-06-18 00:00 | ユングのすそ野の 風景 | Comments(0)

◆知識化された無意識の不思議な効能

>無意識の話って段々自明のことを話しているように錯覚するのですが、早い話例えばエディプス・コンプレックスの話をしていて「それ、わたし思い当たる」と言われたらもうコンプレックスの話じゃなくなっちゃいますよねえ・・・

これはYAHOO掲示板のユングコーナーでs1208さんがお書きになっていたフレーズなんですが、こういうパラドックスめいた文章を見ると嬉しくなってしまいます。ですが、よくよく考えてみるとこうした会話は普通に行われていますよね。

私なんかも最近はややこしい夢を見ることもなく、セラピストにすがるほどの心のもやもやを抱えているわけでもなく、じゃー私の内なる無意識は出番が無く、ユングは無意味かと言うことになるわけですが・・・

ところがどっこい、知識化された「ユングの無意識」が意識のど真ん中に居座っていて、これが事あるたびに何だかんだと作用しているのです。
頑として立ちはだかる女房に“これがうわさの避けて通れぬアニマの刃か・・・”と思い、会社で無理難題を突きつけ傍若無人に振舞う上司を見て“これがトリックスターの嵐か、もしかしてこの破壊のむこうには新しい世界が・・・”などと思えば、感情的になることもなくなるといった自問自答を繰り返す「核」となるのが、知識化された無意識の効能ではないかとふと思うことがあります。

もちろん本当の無意識ではなく、インパクトも弱いかもしれませんが、何年かに一回、セラピストの助けを借りてやっとお目にかかれる無意識に比べると、手軽で常時作動するメリットがあり、よく似た効果が得られることも確かです。
また意識の中にこれが居座り常時作動していることで、無意識の中の類似の感情がガス抜きされ、外部から進入し、本来なら無意識の世界に沈み込んでいきかねない新たな課題を意識レベルで食い止める効果もあるような気がしています。

ユングは無意識の世界を言葉で語りつくしたことで、たとえそれが実証困難な虚構であったとしても、それ以降の人たちの心を安定させ、葛藤を人生の前向きな推進力に変えることに大きく貢献している・・・なんていうと、楽観的過ぎるんでしょうか。(2005.2.18)
by C_MANN3 | 2007-06-16 00:00 | ユングのすそ野の 風景 | Comments(0)

◆追い詰められる無意識?

心の中に暗黒大陸があることを発見したのはユングやフロイトですが・・・それに無意識という名を付け、かなりのところまで光を当てしまった今・・・そこはもう暗黒大陸とは呼べない自明の世界となってしまったということでしょう。

もちろんそれでもなお、光の届いていない闇の世界は広がっているし、しかも自明であることと御せることとは別。
自然科学にたとえると・・・台風や雷のメカニズムが明らかになり、予測さえ立つ時代にあっても、それを阻止できるわけではない。

しかし“なぜかそうしてしまう”とき、“思い当たる節”が増えてきたことは確か・・・
“なぜかそうしてしまう”とき、それを無意識のせいとは言いつつも、解っていながら行動を変えずに居座ろうとしている自分に気がついていることも確か・・・
雷のメカニズムがわかった今、雷雲立ちこめる中に無防備で出て行くことは、自覚した本人の意思、あえてそうせざるを得ない特別の理由があってのことでしょう。

しかもユングのすごいところはこうした思い当たる節、もやもやとした一口では言いようのない心の情景を第三者に言葉で表現できるボキャブラリー体系を構築したこと。単語の一個一個が神話や生き様にシンボリックに対応していて、機械的に当てはめてはいけないといわれてもチョッと探すとぴったりの物が見つかってしまう重宝さがあるのもたしかです。

結局のところ意識と無意識の境界線とは何なのか・・・少なくとも“どうにも表現しようがなくて怯えるか、感情を爆発させるしかないものが蠢いている”という意味での無意識の世界はどんどん知識という形の意識の世界に侵食されつつあるのかも・・・

・・・チョッと甘いかな?・・・
こんなことを言っていると追い詰められた無意識のとんでもない反撃があったりして・・・(2005.2.18)
by C_MANN3 | 2007-06-14 00:00 | ユングのすそ野の 風景 | Comments(0)

◆無意識と知識、せめぎ合いと共生。

相変わらず、何を大袈裟なと言われそうな雑感ですが・・・

自然現象と理系の科学、心の深層と心理学・・・学としていろいろと解ってくると自然も心の深層も“本当によくできているすばらしい世界”と言った感動を呼ぶ一方・・・わかったつもりで調子に乗ると“思わぬシッペ返し”。人類が繰り返してきた感動と戸惑いの歴史ということでしょうか。

科学自体はとりたてて意図を持たず、あるがままの自然への感動や好奇心から発達していくが・・・その成果が人の思惑を生み、工学を持って自然を操作しようとすると・・・最初は意図どおりの小さな成果を積み重ねて感動の世界が広がりますが・・・規模が大きくなるにつれやがて自然の反撃を招く。

たとえば中央アジアで繰り広げられた旧ソ連邦による大規模な灌漑農業。当初は農業生産の増大をもたらしたかもしれませんが、やがてアラル海にみられるように河川流入量の減少で湖の大幅な縮小を生み、灌漑地も大規模な砂漠化や塩害を生じるに至っている。
塩が滲み白く広がる広大な砂漠・・・そこに点々とうずくまる船の残骸・・・なんとも不思議な風景です。

規模を誤ると、自然改造計画と称して結果的には砂漠を作っていく。企業組織ではスピードを誤ると、風土改革といって従業員の心に砂漠を作っていく。いずれも蓄えた知識が何かを変えることができる、やってみるとうまくいった、だったらもっと大規模に一気にと思う結果です。

似たようなことが無意識と意識の境界線でも起こるのかもしれません。
積み上げた知識は少しずつ無意識を侵食する。知識が無意識をあるがままに操作できると思って包囲したとき、無意識はおそらく知識を超えた反撃に出る。個人の心の中でも一歩間違えば、砂漠は生まれる・・・

自然科学や工学の世界でもただただ利用しつくすのではなく、共生,共棲を旨とした生態学的アプローチが言われるようになってきつつありますが・・・無意識についても知識を持って何かを変えるというよりは、知識と理解をもってそれと共生することが限度と考えるべきなのかも・・・

本当の無意識とは別のものとして、意識化したつもりの(想像上の)無意識ならこう振舞うに違いないといった路線で意識的に行動することは修練を積めば可能な気もします。
ですが、意識化したつもりの「無意識への知識」は結果としての(真の)無意識の挙動は説明できたとしても、無意識の次の一手が事前に読めるかというと・・・どうなんでしょうか。(2005.2.18)
by C_MANN3 | 2007-06-12 00:00 | ユングのすそ野の 風景 | Comments(0)

  ・・・次は・・・

      ◆次は「個性化の迷路」について・・・⇒⇒


by C_MANN3 | 2007-06-01 00:00 | ユングのすそ野の 風景 | Comments(0)