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◆組織の不祥事:専門家集団の場合

(2004/10/24 記)最近、「ベル研究所の超伝導論文捏造」、「慈恵医大系病院の前立腺がん摘出手術ミス」・・・
NHKスペシャルで立て続けに専門家の専門性是非が問われる事件の特集を見てしまいました。

「ベル研・・・」は、若手の実験物理の学者が突然、次々とノーベル賞級の発見をしたと論文を発表し始める。何といってもベル研究所、しかもその道の権威とされる人との共同論文ということで疑う人もなく、世界中で追試が始まる・・・だがやがてそれが捏造だと判明し・・・という話。

「前立腺がん・・・」は、経験の浅い人たちが倫理委員会にも無届で内視鏡手術に踏み切る。失敗と判断されると途中で開腹手術に切り替えるべきところをタイミングを失し最悪の事態に至ってしまう・・・という話でした。


ほかにも関西電力の原子力発電所冷却水漏洩、三菱自動車の一連の事故・・・立て続けに次々と同じことが繰り返されていますが、どの話にも表立った釈明と対策だけではおさまらない、いろんなファクターが潜んでいるような気がします。

普通、落としどころとしては倫理規定を整備し、内部告発を奨励し、コンプライアンス委員会を設置する・・・ということになるようですが、専門家組織から発生するこうした問題は、制度的なものだけではすまない・・・専門家自身の「個」の確立といった切り口も必要なんじゃないか・・・などと、思ってしまいます。


問題が表ざたになって繰り返される関係者の釈明を見ていると決まって出てくるフレーズがあります。


《専門領域が違うので・・・確信を持って踏み込めなかった》

「ベル研・・・」では、何と共同執筆の権威者が、現在の研究は細分化された専門家チームがコラボレーションして成り立っている・・・チームといえども任せた専門家のアウトプットはチェックもしないし踏み込んでも正確な理解ができるとは限らない、と開き直る。


《私も組織の一員なので・・・それ以上は言えなかった》

「前立腺がん・・・」では、事故調査委員会の内科医が、おかしいとは思ったし、報告原稿にもそうは書いたが・・・教授に「おかしいとまでは言えない」といわれるとそれ以上は踏み込めなかったと言う。

ですが・・・聞いていて何か変、しっくりこない。最先端の専門家、キャリアもあり、自負もあり、日ごろ肩で風を切って人生を歩んでいるはずの人たちが・・・いったん不祥事となると急にしおらしくなる。
そう言わされているのか、言わざるを得ないのか・・・本気でご自身がそう思っているとはとても思えない、そんなしおらしい人たちではないはず・・・そんな気がしてなりません。


組織のような顔をしているが・・・「組織」という名の人はいない。不祥事を作るのは「個」、それに気がつき阻止するのも「個」。組織の中の問題であっても全ては個に始まり個に終わる・・・個が確立され、動こうとする個があって初めて前述の制度的なものは生きる。制度だけでは何も始まらない、終わらない。

そしてこの「個」は、結局のところ、キャリアや想いに裏付けられた自負心、プライドといったもので形作られるものなんじゃないか・・・それを失って専門家は成り立たない・・・などと思うのですが・・・(2005.3.5)
by c_mann3 | 2008-06-20 00:00 | 組織心理学の心象風景 | Comments(0)

◆組織の不祥事:「個」の無機質化

“組織と個”というとき、今の時代、“個”はかってのように組織の中の単なる駒ではなく、知識をベースに全人格的に組織と共生していくべき存在のはずです。ましてや専門家と呼ばれる人たちではなおさらでしょう。

知識を持ち、研鑽を積み、キャリアを重ねた専門的“個”は、「形式知」だけでなく、それを身につける課程において「暗黙知」をも身に着けているはず・・・
「形式知」が人格を離れて存在できる無機質なものであるのに対して、「暗黙知」は直感や情念をたっぷり含んだ全人格的な色彩の強いものです。

で、専門家といわれる人たちに期待されている能力は本来「形式知」プラス「暗黙知」のはずなのですが・・・ある種の場面からは「暗黙知」がどんどん消されていっている・・・「暗黙知」が消されることで、専門家としての「個」はどんどん無機質な存在になっていく・・・といった印象があります。


たとえばメーカーの不祥事、品質問題が発生した場合・・・きっとこんな会議が繰り返されています。

「どうしてこんなことになってしまったんだ!十分確認はしていたんだろ!」
「もちろんやっていました。ですが今回のような状況は、想定を超えるレアなもので、確認ができていませんでした。」
「で、どうするんだ」
「早速、こうした状況に対する確認をチェックリストに追加し、再発を防止いたします」

この会話、一回だけならもっともな感じもするのですが・・・チェックリストを追加しても、新たな事態は発生する。そのたびに、「予測できませんでした」とチェックリストを追加することを積み重ね・・・チェックリストが分厚くなるのと比例して、全人格を総動員していたはずの技術者がチェックリストや設計マニュアルに従って動くことに忙殺される無機質な存在に変質していく。ですが・・・形式知に従っている限り、一回は堂々と言い逃れができ、そして何より人格が傷つくことは無いというわけです。

チェックリストという客観化された「形式知」を肥大化させることで、「暗黙知」が後退していく・・・そして「暗黙知」の担い手である、個人の情念や直感を表に出すことがはばかられるようになっていく。膨大なチェックリストを消化した次の日にもそれをあざ笑うかのように新たな問題は発生するが、本来、それを予見し回避しうる直感的暗黙知が枯渇していることがこの状況に拍車をかける悪循環が始まる。

どこかでボタンを掛け間違っている・・・そう、一回目の会議で言うべきだったのです。

「くやしいっ!形式知も駆使はしたが、そんなことよりも全人格をかけ、直感も嗅覚も総動員して業務に取り組んでいたのに・・・これを見落としたとは・・・私としたことが無念、舌を噛み切って死んでしまいたい心境です。」
こういえば、この問題は、技術者としての全人格をさらしものにすることにはなるが・・・少なくともチェックリストを分厚くしておしまいというコースはたどらずにすむ・・・そして何より、暗黙知の不足が致命傷を生むといった志向が組織の中で強化共有されるかもしれない。

「個」の情念を消し、果てしなく膨張する「形式知」に頼る組織は危険・・・ですがとうもそういう傾向がある。だからこそ、その対極を描く「プロジェクトX」が心にしみるのかもしれません。


もっとも実際に大きな会議の席上で、「くやしいっ!・・・これを見落としたとは・・・無念、舌を噛み切って死んでしまいたい心境です。」などと言ったら、恐らく村八分ものとなるんでしょうね。ご当人はともかく、その上司も同僚までもが危険にさらされる。上司や同僚が「実は・・・私も」と同調するなんてことにはなりそうに無い。

自ら非を認めると関係者を含めて責任追及の追い討ちをかけられかねない・・・ここはひとつ、チェックリストや設計マニュアルのせいにして・・・私たちはルールにのっとり誠心誠意業務を行ったのですが・・・というのが無難な路線。
ただ、こうした風潮が蔓延すると、無念の思いを胸に秘めつつも苦渋の自己や組織の防衛策として形式知不備のせいにする人はともかくとしても・・・自分自身が本当にそう思ってしまう自省の無い人たちが一人、また一人と現れて増えそうな危険を感じてしまいます。(2005.3.5)
by c_mann3 | 2008-06-18 00:00 | 組織心理学の心象風景 | Comments(0)

◆組織の不祥事:内部告発

(2004/10/28 記)企業の不祥事が続く中、朝日新聞の調査によると主要企業の60%がすでに社内に内部告発の窓口を設けており、予定中を含めると80%に達するとか。但しそれは本社に設置した「倫理委員会」等への告発奨励の制度化であり,外部への直接的な告発は問題外ということでしょう。

企業が導入する「企業内民主主義」は別段民主主義化自体が目的ではなく、デシジョンの安定化や社員のモチベーション向上を狙う目的合理性を持った手段としての制度化といったニュアンスを感じますが、同様に内部告発奨励も不祥事発覚による企業ダメージ損傷の防止といった目的合理性を持ったものであり,社員一人一人や擬人格としての法人の倫理観が突然向上したというわけではないのかもしれません。

これは日本の企業組織が、古めかしい表現ですが「ゲマインシャフト」、「ゲゼルシャフト」の何れかということとも関連している感じです。
「ゲマインシャフト」なら告発は論外で村八分もの。「ゲゼルシャフト」なら、契約違反で組織を危機にさらす不届き者と言うことで、告発者に胸の痛みはありません。

しかしながら現状の企業組織は小規模で非公式な「ゲマインシャフト」の島々を公式な「ゲゼルシャフト」の関係でリンクしたようなハイブリッド状態。しかもこの「ゲゼルシャフト」は未だ未成熟。契約社会というよりは契約を盾ににらみあったままで、自発的に何かをアブり出したり折り合いをつけたりといったノウハウには一人一人が長けていない。
結局小田原評定が続き、大岡裁定を待つといった感じで、不祥事の内部告発も上から至れり尽くせりのお膳立てをして待っては見るが、あがっては来ないといったことになるのかも・・・

翻って米国なんかを見ると・・・・・・
企業だけでなく国家そのものが「ゲゼルシャフト」といった感じで、大統領は就任演説で聖書を片手に国民ではなく神に忠誠を誓う。国民ももとより神には忠誠。ということで両者は神の基に対等、神を裏切ったものは大統領といえども一市民からでさえ告発弾劾される。告発は命を賭しても行う神への義務といった感じなんでしょうか。(ちょっとこれはハリウッド映画の見すぎなのかも?)

他方どこかの国では就任演説は「神」ではなく、原稿用紙の「紙」との対話。テレビカメラを気にして時折顔を上げはするが目は宙を舞いうつろ、いったい誰に忠誠を誓っているのか、どうやら村のようでもあり、だったら村のおきてを破らない限り告発されることはない・・・

などと、変な横道にそれましたが、企業が倫理に気を使い、構成員が告発の是非に思いをめぐらすのは結構なこと。

そして企業が今後少しずつ村社会から脱していくとはしても、それがバラバラでギスギスした構成員の単なる集合体とはならないよう、安定した組織の構成原理を見つけうることを願うばかりです。 (2005.3.5)
by c_mann3 | 2008-06-16 00:00 | 組織心理学の心象風景 | Comments(0)

◆組織の不祥事:パロマとクボタ・・・

松下のファンヒータのリコールが延々と続く中でパロマの瞬間湯沸かし器でも欠陥が露見、毎日のようにニュースが報じられています。
しかも発覚のきっかけが警察による10年前の一人暮らしの男性の死亡事故の再調査だったとか・・・それを受けて立つことになった一回目の記者会見では「当社の責任とは認識していない」といった発言となり、会社は決定的な窮地に追い込まれることになってしまいました。

毎日のように報じられていた松下のリコールキャンペーンのなかで、パロマの社内では「うちの湯沸かし器は大丈夫なのか」といった会話は出なかったのでしょうか。あるいは社員の間の雑談としてはあったにしても・・・組織としての会話には至らなかったのでしょうか。

松下の気の遠くなるような回収努力を目の当たりにして、よく似た自社の製品について多少なりとも議論や調査が行われていたなら、第一回目の記者会見から始まることの流れはまた違ったものになっていたのではと思ったりもします。


この会見の様子を見ていて思い出したのがアスベスト問題のクボタ。
無論それまでにいろいろな経緯があった上のことではあるにしても・・・意を決した感のあるクボタは因果関係も行政の態度も定まらない中で一挙に謝罪と補償の発表を実施。それに引きずられるようにいろいろな会社や行政の態度が固まっていく流れを決定づけたとの印象が強く残っています。

最初は偶発的なアクシデントとして始まることの多い製品や企業運営の欠陥。当初は原因は他にあると言った解釈で事が収まっていきますが・・・あちらこちらから類似の話が重なりことの重大さが浮かび上がっていく中で、やがて社会問題として表ざたにならざるを得ない決定的な段階を迎えることになります。そして、この瞬間をどう迎えるかがポイントのような気がします。

意を決して半歩前に出る会社と、マイクを突きつけられてなお半歩後ずさりする会社・・・半歩半歩でその差はたったの一歩ですが、そのわずかな差がそれ以降の会社の印象を両極に印象付けてしまう。
その瞬間に会社の人格があらわになってしまうということなのでしょうが、政治も事件もすべてが劇場型になって展開される現代社会では、それまで水面下に潜んでいたものが舞台の緞帳が上がりライトが当たった瞬間に見せてしまう第一印象がますます重要となりつつある・・・そんなことを思わせる事件が続いているような気がします。(2006.7.20)
by c_mann3 | 2008-06-14 00:00 | 組織心理学の心象風景 | Comments(0)

◆組織の不祥事:東電とトヨタ・・・

【2013.4.12】 福島第一の現場では相変わらず水漏れ、漏電といった大小のトラブルが続いています。まるでトラブルも、そしてそれに対する謝罪会見もルーチンワーク化してしまっている感さえあります。

そうした謝罪の記者会見を見ていて思う事なのですが・・・どうしてあんなに淡々と、感情を抜いて、他人事のように説明できるんでしょうか・・・
お決まりの広報担当か何かの若い男女のペアーが出てきて、事実関係を淡々と説明。続いてぺこりと頭を下げ、お決まりの「申し訳ございませんでした」で終わりです。後はどんな質問があっても「詳細はただ今調査中です」と・・・
広報担当ではしようがないのかもしれませんが会社として、しまった!とか、プライドが傷ついたことが許せなくて悔しいとか言った感じが全くない・・・なんか企業として、技術者集団として(法人格というか)人格をかけているといった感じが全くない。

対極にある風景として思い出すのですが・・・

以前トヨタが米国でリコール問題を起こし、若い社長が議会の公聴会に呼び出されたことがありました。あの時御曹司の若社長は(正確には記憶していないのですが・・・)たしか、“豊田創業家として無念とか、創業家として責任ある対処をする”といった表現をしている様子がニュースになっていました。
ちょっと時代がかった表現で米国人に通じるのだろうかとびっくりした記憶がありますが、一方で悔しさや申し訳なさや決意といった意味での主観的な人格からあふれ出る何かを感じさせるものがあったことは確かです。

たとえ起こっている事が技術的なマターであったとしてもそれを取り扱っているのは人格を持った人間、最後の歯止めはそうした生身の(事態を背負っている)人間としての姿勢しかないですよね。(2013.4.12)

⇒⇒新着記事渡り歩き⇒⇒

by C_MANN3 | 2008-06-13 00:00 | 組織心理学の心象風景 | Comments(0)

◆「説明責任」とは何か・・・

政治家の不始末、企業の不祥事・・・事あるたびに「説明責任」の話が出ます。
ですが、この言葉の意味は本来“責任ある説明”であるはずなのに、“辞任といった日本的な形で責任をとることで肝心の説明はウヤムヤ”といったケースに陥ることが多いようです。

そうした中で“「説明責任」とは何か”と題した本が出ています。
井之上喬さん著、PHP新書616、副題が“メディア戦略の視点から考える”なのですが、この副題からも覗えるように著者によると、説明責任はパブリックリレーションの本質と密接につながっているはずのものなのだと。

パブリックリレーションの本質は、倫理観、双方向性コミュニケーション、自己修正の三点にある。
ところが日本ではパブリックリレーションへの理解自体が一方的なパブリックインフォメーション(広報)と受け止められがち。
しかもパブリックには広範囲なステークホルダーが含まれるはずなのだが、気遣う対象は製品売り込み先のマーケットといった捕らえ方が多く、それではいわゆるPR(宣伝)となってしまう。

倫理観、双方向性、自己修正の三点がポイントであることは説明責任についても同じであり、事が起こってから一方的に釈明するといったものではないのだと・・・

どうやら日頃から自身の行動や意図を語りつつ、その反響を踏まえながら推進責任を全うする中で自己を変容させていく“常時有言実行”の姿が望まれるということのようであり、それに近づきつつある事例として著者はクボタのアスベスト対応を賞賛されているんですよね。
実は期せずして私も数年前、“パロマとクボタ”といった記事(一つ上にスクロール)を書いていたりして・・・思わずニンマリです。(2009.7.31)
by c_mann3 | 2008-06-12 00:00 | 組織心理学の心象風景 | Comments(0)

◆プロフェッショナル原論・・・

サラリーマンに絶大な人気があったNHKの「プロジェクトX」が終わってしまった今、その後続番組は“「プロフェッショナル」仕事の流儀”ということになるのでしょうか。
色々なジャンルのプロフェッショナルが登場し、見ていてため息の出るような切れ味の紹介が続いています。

「プロジェクトX」から「プロフッショナル」へ・・・この変化は集団による成果の時代から個人成果が問われる時代への潮流変化の反映なのかもしれません。

そうした中でプロフェッショナルが書いた「プロフェッショナル」の本が目に留まりました。題して「プロフェッショナル原論」。波頭亮さん著、ちくま新書629です。

この本はタイトルに“原論”とあるようにプロのスキルを語ったハウツーものとは一味違う、プロフェッショナルの本質、生き様、矜持といったことを熱く語った本。

プロフェッショナルの本質は、
 ①顧客から請け負った仕事は絶対の顧客利益第一主義
 ②高度なスキルによる高い目標と達成品質
 ③中世のギルドに端を発する強い自主独立、自己完結性
 ④素人や妙な誘いを寄せ付けない排他的職権が許されるための
  強い社会的使命感、倫理観と自己規制・・・

いろいろな特徴がある中で、公認会計士の粉飾決算荷担、建築士の耐震強度疑惑等が続く今日、特に意識すべきが④の矜持というのが著者の叫びであり、そこを崩すと③の自主独立は維持できないということのようです。

波頭さんのプロフェッショナルの定義とは多少ずれますが・・・企業の中にあってもプロフェッショナルを自認し、個人としての切れ味と成果で勝負をしようという人たちが増えつつある現在、一読に値する本なのかもしれません。(2007.1.30)
by c_mann3 | 2008-06-10 00:00 | 組織心理学の心象風景 | Comments(0)

◆「思考停止社会」・・・

このブログでも組織の不祥事についていくつか雑感を書いているのですが、不祥事の発生は相変わらずですよね。ですが法令遵守、コンプライアンスといったことが以前にも増して言われるようになるなかで新たな社会の姿が浮かび上がっている・・・そんな切り口の新書が出ています。

題して「思考停止社会」、もと検事の郷原信郎さん著、講談社現代新書1978。
副題が“「遵守」に蝕まれる日本”。職場などで口に出して言うと誤解を招きそうな話ですが、なかなか含蓄のある本です。

ここ数年、日本ではコンプライアンス、法令遵守といったことが強く意識されるようになり、企業や官庁の偽装、改ざん、隠蔽が発覚するたびに大騒ぎになりマスコミを中心に世を挙げてのバッシングが繰り返される。だかそこでは“けしからん”といった倫理の次元に話題が終始し、そうなった動機、背景、それを叩くことによって巻き起こる社会の混乱回避といったことには話が進まず、そこに広がる風景はまさに思考停止の社会。
例えば耐震設計偽装をきっかけに法改正が行なわれたために、一挙に建築不況になったりしたことも・・・

殺人や強盗といった事犯ではなく、社会の仕組みや経済活動にまつわる法律や規制は生きた社会活動の現実とは乖離しやすいもの。

それを補うために米国では常に法を適用し議論を蒸し返し判例を積み上げることで法を時代に追従させていく。
対してして日本ては伝統的に法は神棚に祭り上げ、日常の揉めごとは別の形で調整することが多かったため、結果として法は古色蒼然としていてズレたままのことが多い。
そうした中に突然米国式の法令遵守が言われても、法の精神に照らしてジャッジをしようとすると使い辛く、とんでもない巨悪のように言われていながら実際の起訴理由は殆ど別件逮捕に近い形式違反的なものが多いとのこと。

著者は事犯を感情的なバッシングに終わらせず、その都度そこに潜む法や手続きと実社会の乖離に目を向けて修正を図ることのできる真の法治国家を目指さないと日本はとんでもないことになるのだと・・・確かにそんな気がしないでもないですよね。(2009.4.30)

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◆(2009/5/23追記)不正DMの郵便割引悪用が発覚・・・

ダイレクトメール(DM)広告の発送に障害者団体向けの郵便割引制度が悪用されていたことが発覚。JP日本郵便の支店長等が逮捕される事態になってしまいましたが・・・
この事件の再発防止とかで郵便物の判定が厳しくなり、そのあおりで真っ当な障害者団体の機関紙発行等の運営が行き詰るところが出始めているとか・・・機関紙購読料の8割以上の入金の確認が必要となり、お世話になった方たちへの無料配布も困難に。

不祥事が発覚するたびに、奇妙な形に世の中が捻じ曲がっていく・・・これもまさしく「思考停止社会」を思わせる流れですよね。


◆(2010/9/11追記)不正DMの郵便割引悪用、その後・・・

この事件は真っ当な障害者団体の機関紙発行等の運営が行き詰るといった弊害をもたらしていながら、肝心の事件捜査にもずさんなきめ付けがあったことがだんだん明らかに・・・
この件で逮捕、起訴されていた厚生労働省の元局長村木さんに9/10無罪の判決が・・・これも事件をきっかけにした過剰反応のもうひとつの表れだったということなのでしようか。

それにしても村木さんの無罪記者会見は印象的でしたよね。「残念ではあったが拘留されていたこの一年で、家族の絆がよみがえり、支えでもあった」との言葉には何かしら救われるものを感じさせてくれました。そして笑顔がいいですよね。とんでもない理不尽な事態であったはずなのに・・・心が怒りや憤りのみでうずまれ尽くされていたらこんなさわやかな笑顔は出ない。なんか吹っ切れた境地にあったんじゃないかなどと思ったりも・・・
by c_mann3 | 2008-06-08 00:00 | 組織心理学の心象風景 | Comments(0)

◆マネジメント信仰が会社を滅ぼす・・・

ちょっとドッキリさせるタイトルの本が出ています。ですが中身は真摯、しかも深刻な内容なのですが読みやすく書かれた感動本です。
題して「マネジメント信仰が会社を滅ぼす」、深田和範著、新潮新書401なのですが、この本によると・・・

かつての経営書は深遠な哲学書、思想書といった趣があったが、この十年近くの傾向としてアニメ版ドラッカー『もしドラ』のヒットに代表されるように、マネジメント本がどんどん読みやすくなりしかもマニュアル本化している。

併せて経営者や管理職の経営書に対する反応も様変わりしている。かつてはコンサルタントが経営書に基づく指南をしようとしても“現場を知らない学者の言うことなど当てにはならない”と一蹴し、自己の信念で経営にまい進する経営者が多かった。不思議なことにそうした会社からはどんどん新事業や新製品が生まれ日本は高度成長を遂げてきた。

ところがここにきて、哲学や思想を議論するのはダサいといった風潮の中、スマートなマニュアル本がもてはやされるようになり、理路整然とした中期計画書や業務手順書、ITが駆使され完璧の管理体制が浸透するようになる中で、気がついてみると会社はビジネス志向からマネジメント指向に変身し、新しいビジネスへの挑戦意欲は影を潜めてしまった。これが日本経済長期低迷の一因なのだと・・・

理路整然とした“意見はあっても意思が無い”、失敗してもそれはマニュアルや規定のせい・・・こうした風潮を打破し、経済を活性化させるためには再度“経験と勘と度胸”をよみがえらせ、人には頼らず、自分自身が立ち上がるべきなのだと。


ところでこの本、皮肉にもというか面白くもというべきか・・・巻末の参考文献として往年の経営論の名著のリストと解説を添付。そして信仰に陥らないように取扱いには“自己責任”でご注意をと・・・

たしかに経営論自体が悪いわけではない。次々と紹介される経営論を勧められるままに盲信して吹聴する人、信仰しているふりをして巧妙に自己の責任を回避し思考を停止させてしまった人、マネジメンシする人とされる人が分業し、する側の人が自己目的化した精緻な制度や作業を強要しはじめたこと・・・そうしたことが折り重なって今日の状況に至った感はある。

ですが実は著者はさんざんマネジメント論を広めてきたコンサルタント会社のご出身。マネジメント信仰を加速したのはコンサルタントじゃないか等と言われかねない立場の人が、あえてこんな本を書かなければならないほどに事態は深刻ということのようです。(2011.1.8)

なお、信仰過剰の弊害が言われるものの一つ、“成果主義”については別掲記事も・・・

by c_mann3 | 2008-06-06 00:00 | 組織心理学の心象風景 | Comments(1)

  ・・・次は・・・

      ◆次は「組織の片隅で」を・・・⇒⇒


by C_MANN3 | 2008-06-01 00:00 | 組織心理学の心象風景 | Comments(0)