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◆「心の哲学」、ロボット篇・・・

以前から気になっていた本、「シリーズ心の哲学」、全3巻のうちⅡのロボット篇を拾い読みし始めました。

勁草書房2004年刊、Ⅰが人間篇、Ⅱがロボット篇、Ⅲが翻訳篇なのですが、この内のロボット篇は“心を持つコンピュータやロボットは作れるか”といったところから始まる一冊であり、技術系の人にもなじみやすい感じがします。

◆まずは“心はどんなコンピュータなのか”と銘打った第一章・・・

一口で言うと形式論理を演算操作する古典的計算モデルと、コネクショニズム(どうやらニューラルネットのようなもの)のどちらが認知、思考といった意味での心のモデルとして妥当かといった議論なのですが・・・
技術系の人ならエキスパートシステムとニューラルネットを脳裏に描きながら読むとなかなか迫力のある優劣比較になっています。

1980年前後に人工知能がブームになったころ、私なども他社がやるからにはとエキスパートシステムやニューロやファジーのアルゴリズムに一瞬の期待を持って取り組んではみたものの結局思ったような効果が得られずあきらめたことを思い出します。

新しい理論や技術に取り組む時はうまくいかないと、理論の理解が足りないとかもっと高速コンピュータを使って情報量を増さなければ・・・といった量的な問題に原因を還元してしまって、こうしたシステムやアルゴリズムにはテーマとの相性を含めて本質的な課題や限界があるんじゃないか、といった話にはなりにくいんですよね。

一つ一つのテクニックや理論の課題や限界は、個々の処理技術の固有の世界におぼれてしまうと見えなくなってしまう。
だからこそ、こうした哲学的なレベルの比較アプローチが必要だったのでしょうが、当時はこんな本は無かった気がします。で、直感や嗅覚に優れた技術者はさっさと見切りをつけたが、量の問題に還元した技術者は実らない畑を深追いした・・・

技術系の人の多くは固有の専門書を読むだけでも大変で哲学書などには手が回らないのかもしれませんが・・・こうした哲学レベルの思索があると無駄な努力から足を洗いやすく、より確実な体系の方向性が見つけやすいのではと思ったりもします。

◆そして第三章では「フレーム問題」が・・・

“ロボットがフレーム問題に悩まなくなる日”などというとんでもなく長いタイトルがついた第三章もなかなかのものでした。

実はフレーム問題ってなんだっ!という無知なレベルで読み始めたのですが、どうやらフレームとは、“何かを判断する際に考慮する範囲”ということのよう・・・
ロボットに人工知能を組み込んだとして、人間に近い判断をさせようとするとほんのちょっとしたテーマでもいろんな場面を想定し配慮すべきもろもろの条件をインプットしていくと、ほとんど実時間では演算不可能なほどの条件群になってしまう。で、判断を早めようと無視してよい事項も条件に加えたりするとますますロボットは悩んでしまう・・・結局今のところ妙案は無いらしいとか。

対して人間は、それほど網羅的で完璧な条件や知識を保有しているわけでもないのに、場面場面でそれらしい判断条件をかき集めてそれなりの判断をする。この話を突き詰めて整理していくときっと人間の「知」の前人未到の深遠に踏み込んでいくことになるのだと。
どうやら人間のフレームは事前に固まったものがあるわけじゃない。インプットされていない条件でさえ何らかの方法で補って動員し、都度編成しているらしい。そしてその編成を誘導するものがスキームや文脈といった抽象的なものや感情なのだとも書かれています。

さらには、感情の無いロボットはフレーム設計に失敗し破綻してもクラッシュすればそれで終わるのですが、人間はその際すごく傷つく。この傷心が原動力となって新しいフレーム構築のすべを生み出していくのだといった話も・・・

もっとも昨今の人間様はせっかく感情を持っているのに何か不始末をしでかしても、「はじめての話で思いもよらなかった」とか、「聴いてなかった」などといって全く傷つこうとしない人もいるような気もするのですが・・・(この項はさらに次ページにも続きが)
by c_mann3 | 2012-06-20 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

◆「心の哲学」、ロボット篇・・・《続》

「心の哲学」ロボット篇・・・この本には本当にいろんなことが書かれています。 “拡張する心”と題した第四章もそのひとつなのですが、いわく・・・

認知科学というと認知プロセスを人ひとりの脳内でうごめいている認識や思考に限定して研究することが多かった。だが実際の認知プロセスは脳内だけでなく外部の道具や環境との共同作業で行われているもの。

たとえば3桁x2桁の掛け算は紙の上で筆算表記に変換して実行する。この場合、頭の中では一桁同士の足し算や掛け算に還元されてしまっている・・・

難しい問題は体外の道具と一体で処理にあたったり、問題自体をわかりやすい形に変換ししたうえで脳内処理に入る。人固有の認知処理、情報処理と思っているものもよく見ると外部に依存したプロセスが多く、困難な問題が解けるようになったとしても、脳が発達して高度な処理ができるようになったというよりは外部環境をうまく再調整したものであり、脳の負荷としてはむしろ軽くなっている場合が多い等々・・・

なんか読んでいると二つ上の記事で取り上げている「アフォーダンスの心理学」を思わせるところがあったり・・・さらにはこれも別掲記事の「難しい計算より難しい簡単な計算」で書いていた勝手な思いが多少裏付けられる気がしたり・・・いろいろと親和性を感じさせてくれる一章でした。

◆ところで・・・はじめにありきは言葉?イメージ?

「はじめにことばありき」・・・これはよく使われるフレーズですが、実は数十年前に岩波新書で「はじめにイメージありき」と題した本が出ていて、それに接して以来、“ひとは脳内で何かを考えるとき、言葉で考えているのか、はたまたイメージ処理のような形で考えるのか”・・・それが気になったままでした。

ところがこの本には面白い話が・・・
人は言葉によって思考すると言われているが・・・実は言葉は脳の外部に存在している道具のようなもの・・・道具としての言葉を使うことで思考が正確で他の人に伝達できたり保存ができたりはするが、脳内の思考自体は言葉で行われているわけじゃないと・・・

この話は、上述の桁数の多い掛け算や足し算を例に説明されていて、
紙の上の筆算表記に変換して多桁の掛け算を実行する場合、頭の中の思考としては一桁同士の足し算や掛け算のみしか実行されていない。多桁の計算自体は脳の外部の紙と鉛筆で行われている・・・実は言葉もこの紙と鉛筆のようなものなのだと。

じゃ、脳内固有の思考システムはどんなものかということになりますが、もしニューロコンピュータのようなモデルだとすると・・・思考はイメージ処理の形で行われていると言ったほうがいいのかもしれませんよね。(2008.1.31)
by c_mann3 | 2012-06-18 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

◆「心の哲学」・・・人間篇

ひとつ上に(スクロールしたところに)掲載している「シリーズ心の哲学」Ⅱの“ロボット篇”が面白かったこともあり、引き続いてⅠの“人間篇”を読み始めてはみたのですがロボット篇以上に哲学的で難解。
結果、ちょっとした感想文さえまとまらずついに1年が経過してしまいましたが、このブログでは避けては通れないテーマです。

この本は・・・
>心に関するわれわれの理解は多くの錯誤に満ちている。心の哲学はそのような錯誤を根本的に正そうとする試みである。

などという書き出しで始まり、二十世紀後半に始まった認知科学や脳科学の進展を俯瞰、整理し方向付ける形で心の何たるかを哲学したものであり、“こころと脳”の関係、“こころと環境”のかかわり、“意識とクオリア”といったテーマが扱われています。

まずは1950年代の「心脳同一説」からスタートし心を物理的な脳に対応付けようとするのですが、・・・いろいろな無理や矛盾が指摘され時代を追うごとにトークンレベルの同一説から「タイプ同一説」へ、そして「機能説」,「解釈説」、「日常的実在論」へと話は展開。
そうした中で心を脳の中で閉じ込めて取り扱うことには限界があるとして「外在主義」が現れ,意識の源とは何かといった観点からは「クオリア」の話が現れる。

それにしてもこんなに次々と論や説が出てくるとその違い追っかけるのも大変ですよね。ですがこうした流れに沿って読み進めると確かに心の全体性に迫りつつある感じはします。ただ一方において、論が進むにつれて脳との直接的な対応からは遠のいていくといった気がしないでもない。

どうやらこの哲学のミソは、すでに語りつくされたギリシャ哲学や東洋思想はいったん横におき、認知科学や脳科学といった科学をベースにして心に迫る説や論とその対立点を整理していくと、その先には何が見え、心をどこまで語ることができるのかといったことにあるようです。

脳や心について基礎的な新しい知見が得られつつある今、このアプローチは魅力的ですが、一方で時代を追うごとに脳との直接的な対応をあきらめたような説や論が出てくると、それではギリシャ哲学や東洋思想と変わらなくなってしまいそう・・・
脳科学や認知科学との連動性にこだわらずに心の動きを語ろうとするならギリシャ哲学や東洋思想にのっとったほうが手っ取り早くて説得力も圧倒的ですよね。

さらに思うことですが・・・
こうしたアプローチで心とは何かということが明確になったとしても、その心の中でうごめいている葛藤や希望や絶望の中身についてまで説明することにはならないような気もします。

そういう意味では認知科学や脳科学は“心のひだ”というよりは“プラットホームとしての心”を追求する際によりどころとするもの。心の確証のすべてを脳科学などにゆだねるのは無理なのかもしれませんよね。(2009.1.8)
by c_mann3 | 2012-06-16 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

◆「暴走する脳科学」・・・そして心

「暴走する脳科学」、河野哲也著、光文社新書377。この本も結局のところ“心とは何か”ということなのですが・・・脳科学とのかかわりがより詳しくかかれているところがミソ。
しかも難解だった前掲記事の「心の哲学」人間篇のほぼ全容が、この本の第二章「脳と拡張した心」でそのまま読みやすくコンパクトにまとめられていてありがたい一冊となっています。

ともあれ・・・脳科学は今,疾患の治療を超えて恐ろしい勢いで発展しつつある。
生理的機能の面では、脳の各部位の機能が明らかになり局部に電極を突っ込み電位を操作すると痙攣や激情がコントロールできる。逆に電位を取り出し義手や義足に接続すると指までが動かせるサイボーグの世界が実現しつつあり、ここまでくると遺伝子組替え等と同じく活用には倫理的な配慮が必要とのこと。

一方、心的機能の面でも心の動きと脳の活性部位、神経伝達物質の増減関係が明らかになりつつあり、特に感覚入力にまつわる基礎的な部分については成果が得られている。

こころとはきっとこんなものだろうと機能モジュールに分解する。そしてそのモジュールが働いているに違いない状況を作ってfMRIなんかを使ってその役割を果たしている脳の部位を特定していく・・・あるいは脳に刺激を与えて心の動きを見る。
そうしたことを繰り返しながら・・・いま心理学は認知科学や脳科学と密接な連携をとりつつある。知覚といった身体生理に近い領域では確実に確固たる基盤が固まりつつあるようです。

だが心的機能の中でも知、情、意といった高次の機能となると一筋縄では行かないとのこと。どうやらこうした高次の心的機能は脳内の広範囲の領域が絡まって動いていて、しかも環境との相互作用が強いため脳内で完結しているものでもない。

それにしても高次の心的機能の領域で脳科学の裏づけを取ろうとするとだんだん怪しくなってくるというのが面白いですよね。でも怪しい中にも旧来の心理学が思っていたことのいくらかは裏付けられ、いくらかは変更を余儀なくされ・・・確実に何かが進展しつつあるのが感動的です。

何千年と思索を重ね語り継がれてきた心の世界も奥が深いですが・・・今新しく確認されつつある心の世界もまた興味深く、21世紀って結構知的な好奇心をかきたててくれる時代なのかもしれませんね。(2009.1.8)
by c_mann3 | 2012-06-14 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

◆アフォーダンスの心理学・・・

ふらりと入った図書館で面白い本を見つけました。題して「アフォーダンスの心理学」、 エドワード・S・リード著、新曜社2000年刊。副題が“生態心理学への道”とあります。

人を悩める生き物としてメンタルな領域にのみ言及したり、そうかと思うとヒトをコンピュータや犬、チンパンジーに見立てたりといった心理学が多いなかで、この本はちょっと違う。

副題が“生態心理学への道”とあるようにこの本によるとヒトというものは・・・

・人は利用可能性(これがアフォーダンスの意味)にあふれた物や
 地形といった環境に囲まれて、その中で群れをなして生きている。
・ひとはその利用可能性の情報を嗅ぎ取り、それを加工、変形し群
 れが棲息しやすいものに変えていく。
・そのおかげでヒトは他のどの生物よりも広範囲のあらゆるところ
 (生態的ニッチ)で棲息できている。
・利用可能性の情報はマイクロスリップと称する一種の試行錯誤で
 収集し、集団の文化として蓄積されていく。
・ヒトがヒトたるゆえんはこのように環境の中にあって環境との「切り
 結び」を通じて進化するところにある・・・ということのようです。

心理学は本来、人ひとりを包括的に扱うはずのもの。
包括されるべき人ひとりの全体性・・・たとえば私なども家庭にあっては家族の一人として、会社にあっては組織の一人として、群れにまぎれて棲息している。群れているのにその中で、まるで動物が小さな縄張りを確保しようとするように、ひと一人分の我を張り自己主張したがっている奇妙な存在。

そうした中でいろんなことに悩んだり、喜んだり、執着してみたりあきらめたり・・・心の中はいろいろだとしてもその心を引っさげて心血を注いでいるのは、たとえば企業人なら知恵を働かせ環境から切り取った資源や情報を加工し、いろんな製品やサービスを生み出し世間の生活環境を変えること。

でもどんなに高邁なことを考えてはいても知識も知恵も行動力も全ては群れの中に群れと共にある。と同時に現代にあっては全てはITや機械や都市機能といった“ひと本来の能力を拡張しうる環境”の利用可能性を前提にある。

そんなふうな人ひとりの全体性のうち、喜怒哀楽の心のうちは深層心理学でもそれなりに理解の助けとなり、行動系や認知系の心理学ではヒトの生理学的なカラクリについての知見は得られるのですが・・・こうした心理学にはそうしたヒトが血道をあげている生業に関する言及が無さ過ぎる。

その点、生態心理学はどうやらアフォーダンスといったことを接点に人と物の関わりを扱う。組織とか群れを扱う。ヒトひとりとか群れ一群が生息できる場を扱い、そこでの物や組織を含めた環境活用の進化を扱う。そして結果が文化として扱われる・・・これぞ人を実態に近い形で包括的に扱う心理学なのかもしれません。(2007.9.5)
by c_mann3 | 2012-06-12 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

◆再度、「アフォーダンス理論」・・・

一つ上(にスクロールしたところ)の記事でエドワード・S・リードの「アフォーダンスの心理学」に接し、いたく感動と書いていたのですが・・・
この度たまたま図書館で見つけた本、佐々木正人著「アフォーダンス-新しい認知の理論」(岩波科学ライブラリー12)を読み、あらためて目からうろこの感動!

今回の本はアフォーダンス心理学のベースとなった「アフォーダンス理論」そのものの解説本。アフォーダンス理論が生まれてきた経緯やトピックスがわかりやすく、しかもコンパクトにまとめられています。

従来、人は外界の刺激を視覚や聴覚の刺激として取り込みそれを脳内で処理することで情報として認知しているとされてきましたが、副題に“新しい認知の理論”とあるようにこの本によるとそうじゃないのだと。

アフォードダンス理論は当初はゲシュタルト心理学への疑問から生まれたが、やがてそれを乗り越えて新しい地平に到達した。
人は単に点滅するだけのネオンサインに流れや図形としての動きを認知したり、単なる音符の羅列からメロディーを認知する際もどんなに変調されていても一定のメロディーを感じ取る。人が認知する情報は刺激の総和を超えている。そしてしばしば刺激からは生成できないはずの情報さえ認知する。

このあたりまではいわゆるゲシュタルトの世界なのですがそのゲシュタルト質がいかなるプロセスで取り込まれているかを追求する中で、たとえば戦闘機のパイロットやスポーツマンを分析すると、どう見ても情報処理の時間が足りないような速さで情報を認知し、かつ環境に働きかけている。

ては認知プロセスの本当の姿は何なんだということになるのですが・・・結論から言うと情報は脳内処理の結果ではない。環境の対象自身がすでに情報を有しており、人はその環境の中に分け入って“利用可能な情報(これがアフォーダンスの意味)”そのものを直接取り込んでいるのだと。イメージとしては高度に脳を働かせる中枢神経系というよりは、おびただしい反射神経の集合体といった感じなのかもしれません。

そして例えばこの理論をロボットに応用すると、従来の“すべての動きは脳内の中枢情報処理でありそれに見合った情報の記憶と手順のプログラムが必要”との前提で設計したロボットはちょっとした状況の違いで立ち往生してしまって動けなくなるが(いわゆるフレーム問題)、アフォーダンス的な発想で作られたロボットは旧来の意味での知識や行動手順は持たないため、フレーム問題などには悩まず初めての環境や突発的な事態でもキビキビと動き回るといったエピソードも・・・ 

アフォーダンス理論は心理学だけでなく、IT、人工知能、工業デザイン・・・いろんなジャンルの人が必見の理論なのかもしれません。そして読んでいるといわゆる心の哲学の「外在主義」に通じる雰囲気もあるんですよね・・・(2011.2.26)
by c_mann3 | 2012-06-10 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

◆外在主義・・・

ここしばらく脳と心の関わりにまつわる入門書を渡り歩いているのですが、その中でやはりこれがキー概念なのかもと思い始めたのが「外在主義」。“こころはどこに?”との問いに対しては多分これがファイナルアンサーということなのでしょうか。

心を支える脳のメカニズム自体はもちろん体内にあるのだとしても心の核心は環境との相互作用の中にある。言葉を操るメカニズムは体内にあったとしてもその言葉自体は社会的なものだし、その言葉を駆使して思うことの中身は個を超えて共有されるもの。

そうしたことを称して外在主義というようですが、これに似た臭いのするものはそういえばこのブログでもいろんなところに・・・

▼アフォーダンス心理学
・ユングの普遍的無意識や▼サイコイド領域
▼押井守さんの“人は既にサイボーグ化していて都市は擬体”
▼マクルーハンの“人間拡張の原理”

さらには「シンボリック相互作用論」なんてものもあるんですよね。
以前、鹿児島大の桑原先生がYAHOO掲示板の心理学コーナーで「シンボリック相互作用論」を紹介されていたのですが、その中でさりげなく出てきた言葉が刺激的でした。
“自我は社会的相互作用が内在化したもの”、“相互作用が無くなれば、自我は(それだけの理由で)揺らぎ壊れ消滅することもある”のだと・・・

こうした話をつなぎ合わせていくと、やはり心の核心は脳の中で完結できるといったものではない。

実は心理学に関しては以前から、心理学を外から眺めた書籍でしばしばお目にかかる「過度の心理学主義の弊害」といったフレーズが気になっているのですが・・・例えば深層心理学などでは全ての原因や結果を心の深層に求めて体内で自己完結してしまう傾向が強い。そしてそのことが原因や対策の矛先として社会に目を向けるパワーをそぐのだと。
もしかしたら在外主義はこうした弊害への歯止めとしても有効なのかもしれません。

◆こころの構造モデル・・・

ところで外在主義を反映するとこころの構造モデルはどんな形になるのでしょうか・・・

私自身、このブログの別掲記事で“▼こころの三層構造”と称して、普遍的無意識と普遍的意識が社会や歴史とつながっているなどという勝手な自家製モデルを捏造していたのですが、
ひとつ上の記事で紹介している本「サブリミナル・インパクト」ではこころの構造を「意識」、「前意識」、「無意識」の三層構造ととらえていて、この前意識の層が環境や社会と共有されるモデルであり、これを使っていろんな概念が説明されていて確かに解り易いですよね。しかもいろんな刺激が環境からダイナミックに侵入してくるイメージがリアルに浮かんできます。

そんな中で外在主義に思いをはせていると、よせばいいのにまた新たなイメージも浮かんできます。
それは大海に浮かぶ氷山モデルならぬ、“大海に浮かぶスポンジモデル”・・・?!

水面に浮かんで空中に顔を出したところは意識の世界。だがその領域は自分固有のもののようでいて多孔質のスポンジの無数に開いた孔の部分に取り込んでいるものは世界に通じる大気であり、風と共に常に入れ替わる。
水面下の領域は無意識の世界だとして、それが自分自身の固有のものかというと、たっぷり吸着した海水は大海原につながっていて、波にもまれて揺れ動くたびに入れ替わっている・・・
結局自分自身のものはといえばスポンジで言うなら海綿体。つまり入れ物にすぎず、容積の殆どは環境由来のものなのかもと思ったりも・・・

そして人の脳とスポンジとの違いは、スポンジとは異なり人の脳の海綿体には柔軟性があり取り込んだものによりその形を微妙に変える、そして変化した海綿体が吸収する環境成分を微妙に選択する・・・そういった柔軟性と相互作用のハーモニーが人の脳の特徴なのかもしれませんね。(2009.2.21) 
by c_mann3 | 2012-06-08 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

◆素朴心理学は消去される・・・??

素朴心理学という言葉があるようですね。

前掲の本、「心の哲学」人間篇でも触れられているのですが・・・素朴心理学(folk psychology の訳語だとか)はどうやら学としての根拠が曖昧な心理学を指すようで、いずれ科学的な根拠を持つ心理学に取って代わられ消去される・・・これが“素朴心理学に対する消去主義”という立場だとか。

ただこの言葉、インターネット検索などでみているといろんな使われ方をしているようで・・・どういうポジションの人が何を指して言うかでニュアンスが変わりちょっと怪しい感じがなくもない。

素朴心理学というのはちょっと乱暴に例えると・・・

まっとうな(西欧的な)医学に対する民間療法や祈祷療法ってとこでしょうか。たしかに高度に発達した西欧型医療の前に先進国では祈祷療法は消去された。そして民間療法やおばあちゃんの知恵袋的なものもかなりの部分、影を潜めている。でも民間療法としてくくられる中には数千年の歴史を持つ漢方のようなものもあり・・・漢方が消去されるかどうかはその社会の文化や思想次第ですよね。

で、心理学の話に戻りますと・・・

西欧由来の分析心理学などの一応学として扱われている心理学の立場から、占いもどきの心理学は素朴心理学であり消去抹殺されるべきというあたりまではいいのですが・・・
“科学的心理学とは脳科学や認知科学で裏付けられるもの”といった立場をとる人から見るとさしずめユングなどは素朴心理学に分類されかねない。で、脳科学や認知科学が発達するといずれ消去されるということになる・・・

だったら漢方は消え、ユングもお役ごめんの時代が来るのかということなのですが・・・
例えば脳科学が発達し、喜怒哀楽がニューロンのもつれ具合や神経伝達物質で説明できたとしてもそれは物理現象としての喜怒哀楽であって、その喜怒哀楽の中身やテーマを特定することにはなりそうにない。
悩んでいるとき増量される神経伝達物質は特定されたとしても失恋の悩みと仕事の悩みを区別する神経伝達物質が発見されるなどとは思いにくいですよね。

“こころ”というターゲットはとにかく広くて深い。脳科学や認知科学からは昨日も今日も目からうろこのような新しい知見が提示されてはいても、広くて深いこころの領域の中では今のところ限られた領域での話であり、縦横無尽に心を表現するユングなどに比べると未だ説明能力不足。

ユングの圧倒的な表現力は人がこころをもてあましながら生きていく以上、永遠に優位なのかもしれません。(2008.12.31)
by c_mann3 | 2012-06-06 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

   ・・・次は・・・

      ◆次は「人間の本姓」や「脳」について・・・⇒⇒


by C_MANN3 | 2012-06-01 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)