◆科学思想の系譜:現代科学は魔法の末裔

前掲の小柴先生の「科学を五感で味わう」ということに関連しそうな雑感です。

“愛読書はもっぱら新聞の書評欄”なんてことを言うと、じっくり本を読み込んでおられる方からはヒンシュクを買うのかもしれませんが・・・

2003/7/20付け、朝日新聞の“「磁力と重力の発見」山本義隆著、みすず書房刊”の書評はなかなかのものでした。この本の副題は“現代科学は魔法直系の末裔だった!” ・・・端折りながら、何ヶ所か引用しますと・・・

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>多くの人は、昔の人たちは迷信深い非科学的な連中だと思っている。その非科学的な部分、魔法だの錬金術だのを切り捨てることで現代科学が成立したのだ、と。
>だが、科学は魔法を切り捨てたのではない。むしろ科学は魔法の直系なのだ。極端に言えば万有引力というニュートン力学の根幹こそ、魔法の最大の遺産。

>太陽も、りんごも、あなたもぼくも、みんな「万有引力」とやらで結ばれている、だって?合理的な機械論者たちはそんなキモチワルイものは認めなかった。
>一方、ニュートンは魔法も錬金術も研究していた。だからこそ「万有引力」という異様な概念を平気で導入できた。

>物理は一つの世界観で、各種の数式はその世界での因果律の表現・・・ハリーポッターに夢中になっている子供に本書を見せて教えてやろう。魔法の世界は今君の目の前にあるんだよ、と。
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考えてみますと魔法や錬金術の世界から生まれた物理法則なら、それを血となり肉となるほどに身に着けるには、ロジカルにのみ理解していたのでは無理なのかも・・・
心の奥深く、無意識の世界に根を張るまで吸収しようとすると、ロジカルなままの状態では、無意識の入り口で拒絶反応が起きてしまう。ロジカルなものにどろどろしたメンタルなものをコーティングし、融合させなければ無意識の世界には沈み込んでいかない。

せっかく身につけた知識もロジカルなままでは計算で展開できるところまでしか発展できないが、無意識の世界に根を張った知識はいざ活用しようとするとき、本来の知識だけでなく、それにまつわるいろんなものを無意識の世界から引っさげてくみ上げることとなり、時として思わぬ発展が期待できなくもない。

硬っくるしいだけのロジカルな知識が、無意識の中に潜む英知をくみ上げるポンプの役目を果たす・・・なんてことを書いているとまたしても“▼能動夢(能動的想像)と創造性”なんて話しに飛び火しそうなのでこの辺で・・・

おっと、肝心なことを書いておかねば・・・この書評の評者は山形浩生さん。なんでもこの本の著者が元東大全共闘議長だったとかで、研究者の道を歩めず、予備校で気合の入った物理の授業をしていたらしく、山形さんはそこで感銘を受けた教え子とのことです。そういえば林道義さんも東大でブント派全学連の常任中央執行委員だったとか・・・闘士なお随所で健在、ということでしょうか。(2005.3.1)
# by c_mann3 | 2012-12-12 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

◆科学思想の系譜:デカルトのシジギー性

ユング心理学では、男性性と女性性といった対の双方を具備する状態を両性具備とかシジギーと言い、未だ身分化ではあるがあらゆるものに発達しうる可能性を秘めたものといった扱いをするようですが・・・

ちょっと話を飛躍させて、デカルトってのはシジギーだったんじゃないかと・・・
デカルトから現在に至る人類の知の歴史を人の心の動きの経緯と見立てますと面白い構図が浮かび上がってきます。


「心身二元論」を唱えたデカルトは、「心」と「身(もの)」、いずれかを選択したのではなくて二つを分離はしたが双方を身に付け重視した・・・両具性をもったシジギーだったと思えなくも無い。
男女の両性を持った美少年デカルトは、従って一個の人格としては中性的で透き通るような美しさを持つがゆえに、男女両極の人たちを魅了する。

ひとつは「もの」の側面に惹かれた唯物論の人たち・・・そして一方は“われ思うがゆえに我あり”の言葉にひかれた唯心論の人たち。
デカルト自身は双方を重視していたにもかかわらず、それに惹かれて続く人たちはその片面を重視し、他方を軽視、無視、極端な場合は憎悪・・・要するに片側を無意識下に押しとどめることによってもう片方を意識、知識の世界で発達させ、現在の世界を創った。

心なんて存在の不確かなものは排除することで科学的科学?の世界を推し進めて現代の文明社会を切り拓いた人たち・・・他方、心には科学では捉えられないものがあるなんていう人たち・・・双方の埋まりそうに無い溝を見ていると、中性の美少年デカルトを取り合って憎みあう男と女といった構図を思い浮かべてしまいます。


こうした中で異色なのが脳科学を足場にクオリアを目指す人たちです。足場は唯身論ですが、その向こうに“こころ”を見ている・・・もしかしたらこの人たちこそは、シジギー・デカルト丸ごとの末裔なんじゃないか・・・なんてことを思ったりするのですが・・・(2005.3.1)
# by c_mann3 | 2012-12-10 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

   ・・・次は・・・

      ◆次はいろんな分野への進化論、認知論の波及について⇒⇒


# by C_MANN3 | 2012-12-01 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

◆なるほど。進化心理学って・・・

新聞でちらりと見た“進化認知科学”という聞きなれない言葉が気になっていたこともあり・・・ふらりと入った本屋で“進化論”の本を買ってしまったのですが、これが面白くて、あっという間に読んでしまいました。

題して「進化論という考えかた」佐倉統(さくらおさむ)著、講談社現代新書、2002刊。

ダーウィンとウォレスが自然選択理論を発表したのが1858年。翌年ダーウィンが「種の起源」を出して以来、いろんな人によりとんでもない発展を遂げた150年間をドラマチックに解説してくれています。
進化論のエキスは“変異の生成(突然変異)、適応度による淘汰、変異の遺伝(自己複製)”の三点。この生命情報の伝達単位「遺伝子」を文化情報の伝達単位「ミーム、meme」に置き換えることで話は一挙に社会科学全般に拡がる。

生物学的な遺伝は遺伝子を介して子孫に対してのみ伝達していくのですが、ミームは寄生遺伝といった形で、同世代の社会間でも伝達され、集団選択過程といったプロセスを経て対象を進化させていくとか・・・
集団を対象とした進化では極端に大きな突然変異に頼らずとも、むしろより少ない遺伝率で適応度を上げていく“適応度地形”概念が成り立つとか・・・
面白い話が満載で、なんとなくではありますが進化心理学とかのイメージがつかめそうな感じがしてきました。

仕事が技術系ということもありホランドの「遺伝的アルゴリズム」については話を聞いていても、単に最適解を求める一風変わった数理的手法といった程度の認識しかなかったのですが・・・背景にこんなに広大な世界が広がっていたとは驚きでした。

もっとも著者は単に進化論についてだけでなく・・・
こうした生命科学をはじめとする科学が旧来の人間が信じてきた倫理や価値の観念を侵食し空ろになっている。この空白をうずめるためには科学に物語が必要。

価値の問題と事実の問題は区別することが科学的な態度とされてきたが、空っぽになった価値規範や社会理念を自然科学の成果で再構築するためには、科学を単に実証的な事実として学者うちで語るだけではなく、物語として語り、伝達し、社会全体が共有していくことが必須と力説されていて・・・
なるほど、それが今一番重要な「ミーム」の具体例であり、人類が社会として進化していくためには必要なのかも、と思った次第です。(2005.2.12)
# by c_mann3 | 2012-10-20 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

◆《続》進化心理学・・・

進化心理学の本・・・生物種としての人間が数万年単位で生き延びていくといった意味での進化と、数千年単位の心や文化の進化でニュアンスは違うようですが・・・読んでいると示唆に富んだ話がいっぱいです。

ということで、いくつか受け売りも含めた進化論的な雑感を・・・

●進化というのは“単に適応淘汰して生き延びる”といった側面と、“進歩とか発展”につながるものがあるわけですが、何れにせよ進化するためにはその種がいろんなバリエーション(変異したもの)を排除せずに持っていることが必要なようです。
一糸乱れぬモノカルチャーとか、一神教的な種は体制維持に効率的ではあっても劇的な変化には弱く、創造性を発揮して百花繚乱の文化を生むなんてことも困難といった感じです。

●あまりに劇的な変化は“進歩、発展”といった進化にはつながらず、何か大事なものを消滅させただ生き延びるだけといった結果を生むようです。早い話が昨今言われているエイズがもっと強烈に人類全体を襲ったとすると、生き残るのは偶然エイズの抗体を持っているらしいアフリカの一部の人たちだけが人類の代表として生き残る・・・その規模では人類が数千年かけて築いてきた文化や文明の継承は一旦リセットということになりますよね。
似たような話として昨今の極端な日本の経済危機。これに無理やり適応するために企業や社会は何か大事なものを切り捨てようとしている・・・これは社会が生き延びるという意味では進化ではあるが進歩、発展とは違った方向なのかも。

●でも救いはある。進化の仕方も進化する・・・という話があり、これは“人のように知恵を持った種は自分があまり進化しなくてもいいように環境を変えていく”ということのようです。たしかに人類は多少の熱波、寒波には適応力を身につける生理的な進化ではなく、エアコン、服装といった文明の力で環境を変えることで生き延びていきますよね。
願わくば、突然変異や異常な訓練(無理やりの適応)で生まれる鉄人とか超人だけでなく、普通の人が生き延びていけるよう、核戦争、南極が解けて大地が水没、世界大恐慌といった激変だけは避けられるような叡智が働いてほしいものです。 (2005.2.12)
# by c_mann3 | 2012-10-18 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

◆進化経済学のすすめ

「進化論という考えかた」とかいう本に続いて、「進化経済学のすすめ」、江藤進著、講談社現代新書、2002年刊という本を発見しました。

前回の本は“人の心の進化論”ということで、進化心理学といった内容だったのですが・・・今回は経済学。タイトルは経済学ですが副題が“知識から経済現象を読む”とあるように、産業組織の中で制度や知識がどう進化していくかといったことが書かれており、“進化組織心理学”として受け止めても参考になる興味深い本でした。

何でも、従来の経済学は社会事象の全てを金と物に還元していたためマクロには強いがインテリジェントな人の動きが絡むミクロ事象は苦手であったとか。対して進化経済学では金、物に加えて進化する情報(人)を取り扱うことで、強く人の関わるミクロな経済、経営の動きが取り扱えるようになったとのこと。

知識は一見、個人に属しているように見える。しかし組織の中の知識は実は他の知識との関係性の上で価値をもつもの・・・外界の刺激を受けて知識そのものと、知識間の関係性を絶えず進化させることが肝要というわけです。

例えば・・・
◆真似ができないシリコンバレー・・・倒産の進化論
産業活性化の起爆剤にとシリコンバレーを真似て日本でも盛んにハイテクリサーチパークを作るがうまくいかない理由は風土にある。シリコンバレーのベンチャーの生存率はわずか5%。何度となく倒産しその経験をもとに進化した人たちが、それをよしとする投資家たちと有機的な関係性を持ち挑戦を繰り返す風土がミソ。一度倒産すると退場するしかない風土の中で形だけを真似たパークを作っても成功はしないのだと。

◆ソニーと松下・・・進化の事前能力と事後能力
新しいことを先駆けて創造することに長ける事前能力が強みのソニー、対してきっかけは何であれ一旦掴んでしまったものを磨き上げ、定着させる事後能力に長ける松下やトヨタ。両社の違いの背景には歴史的に蓄積された経験(進化のプロセス)と知識間の関係性(結果として保有する遺伝子)の違いがある。

・・・等々、知識の進化プロセスと経済活動の関係に関する話が満載の本でした。

それにしてもこんな風に“進化**学”とかいっていろんなジャンルで本が出ているってことは・・・“現代進化理論”というのは、“行動科学”や“認知科学”に匹敵する汎用性の高いベース理論になっていくということなんでしょうか・・・?(2005.10.10)
# by c_mann3 | 2012-10-16 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

◆行動経済学・・・

ふらりと入った書店で目にとまった本、「行動経済学」。友野典男(明治大)著、光文社新書254、副題は“経済は「感情」で動いている”です。

1950年代以降の社会系科学は《行動科学》⇒《認知科学》⇒《進化論や脳科学の影響を受けたもの》へと大きく変遷などといったイメージを持っていることもありタイトルを見た瞬間、何で今頃になって《行動》を冠した経済学?と思ったのですが・・・パラパラと目を通してみると面白そうなので買ってみることに・・・

従来の経済学は「合理的経済人仮説」を前提にし、人は効用最大化を目指して数式の上を一歩も踏み外さず歩むものとして構築されてきた。「勘定」は重視しても「感情」は持たない、「市場」は重視しても「私情」や「詩情」とは無縁・・・そんな前提から出発した経済学ではマクロは説明できても個人や企業の意思決定の役には立たない!

・・・ということで誕生したのが「行動経済学」。経済学の本流からは冷ややかな視線を浴びながらも心理学、認知科学、進化論、脳生理学の分野と交流を重ねて磨き上げること30年。ついに創世期のメンバーがノーベル経済学賞に輝く(2002年、カーネマン教授)ところまできたのだと。

完全合理性よりは限定合理性、精緻な数学解よりはヒューリスティクス、そして人の判断には数々の認知バイアスが掛かっているいることを前提にした「行動経済学」。この本はその歴史とエッセンスがまとめられた読みやすい解説書、お勧めの一冊です。特に最後の第9章では最新の進化論や脳科学が新しい経済学の強力な援軍や裏付けになっている様子がくっきりと描かれています。

◆そんな中で、身につまされるトピックスをひとつ・・・

この本の副題の“経済は「感情」で動いている”は、感情的に動くという意味ではない。事故で脳を損傷した人達を調べていくと・・・前頭葉の一部を損傷しただけで知性も人格も全く損なわれていなくて“感情”だけを失った人は、状況を判断し色々な選択肢の合理的な利害得失の計算が完璧にできるにもかかわらず、最後の意思決定ができないことが解ってきたとか・・・
要するに意思決定には合理的な計算だけではなく生き生きとした感情が必要だということであり、
“解っているのに決心や行動ができなくなってきた”時は・・・感情の枯渇を疑ってみることも必要なのかもしれません。(2006.9.30)
# by c_mann3 | 2012-10-14 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

◆認知科学+進化、脳科学・・・

前掲(ひとつ上にスクロール)の本、友野典男さんの「行動経済学」では最後の第9章で行動経済学最前線と銘打って、脳科学や進化論との関わりがすごく分かりやすく解説されています。

この本に限らず進化心理学とか進化経済学といったように進化論を踏まえた本が目につきますが、こうした諸科学の入門書をあちらこちら拾い読みしていると不思議な感じがしてきます。

認知科学的な説明で終わってもよさそうなのに、なんでこんなところに脳科学が出てくるのか、しかもそれで事足りずに進化論まで出てくるのはなぜなのか・・・不思議ですよね。

「行動経済学」を読みながらなんとなく思い始めたことなのですが・・・

認知科学ではボックスモデルとかいっていろいろなモジュールを想定することで認知プロセスを構造化し、巧妙に仕組まれた実験やコンピュータシミュレーションでモジュールの存在を確かめていきますよね。ですが所詮心の中の出来事であり、心にメスを入れても物としてのモジュール自体を切り出すことはできない。ですから存在の証明と言ってもなんとなく状況証拠って感じは否めない。

そんな時、脳科学のfMRIやPETを使って脳の活性部位を特定することができると一個一個のモジュールがここにあるって感じでリアリティが増すことは確か・・・逆に脳の活性部位と対応しないモジュールはただの仮説、空想の産物ってことになるのかもしれませんね。


では、さらに進化論が出てくるのはなぜか・・・

それは脳科学を使って存在にリアリティが出てきた認知構造体だとしても、何かが足りない!
これはどうやら犯罪捜査で物的証拠がそろっているのに「だが動機がわからない、なんかおかしい、不自然だ」などといって動機、目的を探し出して初めて納得することと似ているんじゃないか・・・

科学に目的や動機が必要というのも変な話なのですが・・・進化論は脳科学で裏付けられた構造体の存在目的、存在の動機を説明するのにぴったりなのかもしれません。
でもなにも進化論などというものを持ち出さなくても、状況適応を目的にした状況適応論としてしまってもいいような気もするのですが、進化論自体が一種の適応理論なんだからどちらでも同じことで・・・聞こえのいい、おしゃれなものを採用ってことなのでしょうか。

とは言うものの・・・状況適応論は自身を変化させて今の状況に適応する、コントローラブルな最適化理論の一種といった感じもします。対して進化論は自身を変えるのではなく変異と淘汰で残ったもの、しかも適応の対象が果てしなく遠い昔。

話としては面白いのですが、“それは石器時代の進化適応のなごり”・・・などと言われてしまうと論拠を手の届かない遠~い彼方に持っていかれてしまった感じで、ただただ「なるほど!」と感心するしかしようがないって感じがすることも確かなんですよね。(2006.10.16)
# by c_mann3 | 2012-10-12 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

◆心理学もいろいろ・・・

友野典男さんの「行動経済学」という本、タイトルがそうであるように経済学のように見えるのですが・・・実は心理学に近い。
経済活動に絞って、人の行動を支配する心理を認知科学的に解明し体系化したものなのですが・・・読めば読むほど不思議な感覚に襲われてしまいます。

種としての“人”の心を扱う学問である心理学もどうやらいろいろ・・・例えばユングなどは心の中でも“さまよえる魂のゆらぎ”といったテーマが取り扱われ時間軸としても人のライフステージのほぼ全域を対象にしていますが、行動経済学が扱う心はもっと瞬間的で表層的なもの(と言ってもその基は種としての人の心の深層に根ざしたものなのですが・・・)。

で、ユングなどでは人の心の在りようというものにはいろいろな状態がありえてそれがエナンティオドロミアとか補償とかいって揺れ動く。それが自然な状態であり、すべての状態は相対化されそのうちのどれかの状態が基軸とか規範といったことではないですよね。

ところが行動経済学はまるで心理学のようだとは言いながらも一方において紛れもなく経済学。行動経済学では人の経済行動における心理的なブレやバイアスの形で人の心の特質が解明されていくのですが・・・
数理的な確率論からみるとこう判断すべきなのだが人はそれとは異なる特徴的な判断をしてしまうといったように、そのブレを測る際に常に経済合理的なものが基準線として持ち出される。

無論、常に数理的で経済合理的な判断をする人などいないと言うのが行動経済学の立場なのですが・・・合理的経済人という仮想的な基準を基に生身の人の持つブレ様が次々と解明され並べたてられていくと・・・規範的なものがなくて全ては揺れ動くなどと言う心理学よりも、人の心が持つ特質がより鮮明に浮かび上がってくる感じがします。

行動経済学で浮かび上がってくる姿は、人によって多少のばらつきはあったとしても種としての人が持つ傾向、特質には確固たるものがある感じがします。少なくともいろいろあって大きく揺れ動くといったイメージではない。

おそらく・・・広大な心の領域をカバーしようとすると、両極の二つの心理学は今後も双方が必要なのでしょうが・・・行動経済学のこの本は、あらためて心理学はいろいろ・・・と思わせてくれる一冊でした。(2006.10.16)
# by c_mann3 | 2012-10-10 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

◆創始者の名を冠した心理学・・・

このブログは三部構成になっていてそのひとつを「ユングの裾野の風景」に割り当てている程にユングへの思いは強いのですが・・・
行動経済学のように認知科学をベースにした心理学にも興味を持ち、読み比べるうちに妙に気になり始めたとりとめの無い感想をひとつ。

認知心理学はまだ数十年の歴史しかないのでしょうが、おそらく今日も世界中で好奇心と野心に満ちた、おびただしい数の若い人たちが思索と認知実験を繰り返している・・・今、認知心理学と題して書かれている書籍やノーベル賞に輝いたカーネマンは現在進行形の知的エネルギーのほんの氷山の一角。

こうした本に出てくるトピックスを読んでいると・・・今日も明日も世界のあちらこちらから、今は無名かもしれない挑戦的な研究者によってさらに新しい知見が付け加えられ続けるに違いないといった熱気と将来性を感じてしまいます。

対して“創始者の名を冠した心理学”・・・たとえばユング心理学といったものは、いかにユングが偉大でそれが広大な概念群の世界であったとしても、名を冠したことによって枠組みが固まってしまった世界といった感じがしないでもない。

ユングの概念を援用、転用して新しい世界を切り開いていくことは可能だし実際に行われてはいても・・・どうしても“いや、ユングはそんな風には言っていない”とか“それはユング風ではあってもユングではない”といった解釈論の世界に引き戻されてしまう。
少なくとも新進気鋭の無名の研究者が新しい知見を引っさげて彗星のごとくデビューできる世界ではない。
それがいかに広大で奥深い世界であったとしても、結局は重鎮による解釈権を頂点とした家元制度のような雰囲気が漂ってしまう・・・なんてことを言ってしまうとまずいのでしょうか。


無論、ユングと認知心理学では持ち場も持ち味も違う。揺れ動く魂と折り合いをつけながらいかに生きるべきかなどとという領域に認知心理学がそうそう答えや思考の枠組みを提供できるとは思えない。
強いて言えば、ユングは繰り返し繰り返し反芻することでいろいろに変わる味を味わいながらじっくり吸収していく壮年期以降の糧。対して認知心理学は次々新しいものを摂取することで人としての骨格を形成し、好奇心旺盛で日々奔放に成長していく青年期の糧といったニュアンスなのかもしれません。

ちょっと変な雑感でユングファンの人たちからはお叱りを受けそうな話ではありますが、私自身もユングファンでありながらもフッと思う雑感ということで・・・ご容赦を。(2006.10.16)
# by c_mann3 | 2012-10-08 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

◆経済学もいろいろ・・・「経済物理学」

いくつか上(にスクロール)の記事で“心理学もいろいろ・・・”などといった話を書いていたのですが、経済学も負けず劣らずいろいろのようです。

進化経済学、行動経済学・・・そしてさらに先週の日経新聞(11/4~6)では「経済物理学」などといった聞きなれない学問の紹介記事が連載されていました。それが面白かったので思わず本屋に飛び込んで買ってしまったのですが・・・

題して「経済物理学の発見」。高安秀樹(ソニーコンピュータサイエンス研究所)著、光文社新書167、これがまた新鮮でした。

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“物の値段は需要と供給の交点で均衡する”と言うのは幻想。均衡点などと言うから静かな安定点といったイメージを持ってしまうが、このポイントは実は需要過剰と供給過剰が入り混じって激しく揺れ動く臨界点。
たとえて言うと水から気体に相転移する臨界点(沸点)は温度としては多少温めても冷ましても100℃を維持する安定点のようでいて、実は大小の気泡が生起消滅し、音を立てやかんを揺さぶるカオスの状態であり、時には飛び散る飛沫で大火傷をこうむることさえあるんですよね。

ネット上で数秒から数十秒に一回の取引が無制限に繰り返される為替や商品相場のディーリングルームではこのカオスの性質が強く出るとのこと。

経済物理学では数秒に一回発生する為替取引の生データを何百万個も集めて数値解析し、物理学のモデルを当てはめたシミュレーションなどとつき合わせてその瞬間に起こっていることの特徴を抽出していく。
そこには“波に乗っかる順張り”や“凪いでいる時の模様眺め”といった人間に共通の癖があり、それが原因でいつも小さな暴騰、急落を繰り返している。しかもその発生分布が正規分布ではなく、ベキ乗分布であるため、しばしばとんでもない暴騰や急落が発生するがそれを止める力はどこからも働かないのだと・・・

為替相場はともかく、仕事がら昨年以来の重油相場の乱高下に一喜一憂している私などは思わず納得してしまう、おもしろい本でした。(2009.11.10)
# by c_mann3 | 2012-10-06 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

   ・・・次は・・・

      ◆次は「進化論」自体についていろいろと・・・⇒⇒


# by C_MANN3 | 2012-10-01 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

◆実験進化学・・・

進化心理学、進化経済学・・・進化論をモチーフにしたいろんな本を読み、なるほどと思いながら肝心の進化論の本を読んだことがない。やっぱりそれはまずいんじゃないかなどと、図書館をうろうろ・・・そこでとんでもない本に出会ってしまいました。

題して「追いつめられた進化論」、西原克成著。副題が実験進化学の最前線。

いきなり・・
>本書はダーウィニズムを否定するとともに、進化の謎を実験進化学的手法によって解明しながら検証し、正しく解説したものである・・・と。


とんでもないフレーズからスタートするのでいかがわしい感じがして一旦は書棚に返したのですが・・・
やっぱり気になり借りてしまって、読み進めるとこれが面白い。困惑と感動がバームクーヘンのように層を成していて、このまま読み進めて飲み込んでしまうと体に変調をきたすんじゃないかと気にになりつつも読み始めると止まりませんでした。


進化は遺伝子の突然変異と適者生存の自然淘汰が積み重なったもので、獲得形質はその代限りのもの・・・というのは嘘。ダーウィンは一旦は医学部に進みながら解剖学がいやで神学部に転向したひと。そんな人が生み出した進化論は科学じゃない!なのにそれを信じた学者や学会は150年間その呪縛から逃れられなかったのだとも・・・

われわれの祖先は突然変異などという不確かなものによって形態を変えてきたのではない。たとえば地殻変動や気象条件の激変で陸に上がった魚は20倍に増えた酸素濃度と6倍に増えた重力の作用の中でのた打ち回らずをえず、それにより強制的に内臓配置や骨格が新しい形態に変化した。
そうして得られた新しい獲得形質はもちろん遺伝子に作用することはない。だから獲得形質自体は遺伝するわけではないが、同じ環境が続く限りその獲得形質は保存される。

さらには遺伝子は突然変異など待たずとも、環境変化でトリガーが掛かればとんでない変容をきたせるものを内蔵しているのだとも。で、そんな環境の激変と変容を何回か繰り返しながら今日に至ったのだと。

例えば、遺伝子重複で多体節化した生物が海中を泳ぐようになると慣性の作用で形が変わり、臓器の配置が変わる。
やがて陸に上がると重力の影響でさらに骨格と臓器の配置が変わる。酸素濃度の変化と呼吸の仕方の変化で新たな臓器が誘導される。臓器間の連携のために血管神経網が誘導される。
さらには酸素濃度の影響による化学的な変化がトリガーとなって遺伝子から新たな機能が発現する。

それを確かめるべく、著者はトチザメやネコザメを毎日一時間だけ陸揚げしたり、メキシコサンショウウオを陸揚げして臓器の変化を観察したり、その変化を人の胎児の変化と執拗につき合わせみたり・・・その結果、進化は実験で確認できる物理現象や化学変化であり、確かに個体発生は系統発生を繰り返しているのだと。

医学や解剖学の専門用語が多すぎて頭がくらくらするのですが、そんなことは気にせず無理やり読み進めるうちに・・・なんかそんな気がし始めるといった不思議な本です。

ところで、そうなると遺伝子の突然変異はどうなるの?ということになるのですが・・・それについては稿を改め次の記事に。(2009.6.24)
# by C_MANN3 | 2012-08-20 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

◆突然変異の効能・・・

前掲の本、西原克成さんの「追いつめられた進化論」では・・・
進化は突然変異などという不確かなものに頼って起こるのではない。形質の変化は環境の激変により物理法則にのっとってあっという間に起こる。さらにラマルクの“用不用の法則”による変容や退化がそれを仕上げていくのだと。

だとすると突然変異の効能はなんだってことになるのですが・・・この本では進化が起こった後、長い時間をかけて突然変異が蓄積されることで、もはや元の環境に戻ってもそれに適応していた元の形質には戻れなくなる働きをしているのだと。

突然変異は進化を起こすのではなく、それを後追いし歯止めをかけるもの・・・?

この本ではそれ以上の解説が無いため、最初は面食らったのですが、何回か読み返すうちになんとなくつかめかかった勝手なイメージでこんな図ができてしまいました。
b0050634_1283259.jpg
突然変異は超大なDNAのランダムな場所で、役に立つ立たないはお構いなしの変化として発生する。そしてどうやらその場所がポイントのようです。

すでに発現し現在の環境に適した形質を形作っている源となっている領域で突然変異が起こるとそれは奇形となる確率が高く、結果として生存には適さないため種として蓄積されることはない(区間A)。
一方、太古の昔に使われていて今は退化してしまっている領域や、いまだ使われないままの領域で突然変異が起こるとそれは発現されることもなく、従って淘汰されることもなく、単なる情報として複製され蓄積されていく(区間B)。

そうした後でいったん陸に上がった生き物が再び海に戻るような環境の後戻りがあったとしても、変異しつくしたDNAからはもはや再度それに適した形質を発現することはできなくなってしまっている・・・おそらくこんなイメージなのかもしれません。

言われてみると・・・ランダムで気まぐれな突然変異が突然の環境変化に合わせて都合よく起こるというのは不自然ですよね。だから西原さんはダーウィニズムは科学を装った創造神話、神学だというのですが・・・


◆となると、ちょっと困ったことが・・・

上の勝手な図にもあるように西原さんの進化論ではさらに新たな環境に適応するための進化は、現在の形質が自然法則にしたがってさらに変容していくことで達成されていく、それで足りないものがさらにDNAから誘発されていくとしてもそれはすでに現在のDNAにビルトインされているものということになるんですよね。

この進化論、かなり納得はしかかっているのですが・・・そうなると突然変異の効能はネガティブでむしろ生存や進化の足を引っ張る要因といった感じとなる。

実は私などは突然変異がもたらす多様性、多様な異端、異端の効能が社会や技術の進歩の源泉などといった思い入れを持っていて、このブログでもそんなモチーフの記事をあっちこっちに書いてしまっているんですよね。
異端は不要。正当な保守本流は絶滅などはせず、それ自身が内包するDNAを発現させていくことで進化は可能となると・・・異端の信奉者はある種のパラダイムシフトを迫られかねない。

・・・と一瞬悩んだのですが、落ち着いて考えてみると異端の源を突然変異に求めるからまずいんでよね。異端の効能は変わらない。そして異端は変異に頼らずとも内なる世界を独自に掘り起こすことでも生まれうる。

そう思ってみると“内包するDNA(無意識)を発現させていくことで進化(変容)が可能”とのモチーフはどことなくユングの世界とも通じるものがある・・・などと、とにかくいろんなことを考えさせてくれる進化論ですよね。(2009.6.24)
# by C_MANN3 | 2012-08-18 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

◆環境が誘発するDNAの発現・・・

進化は突然変異などという不確かなものに頼って起こるのではない。形質の変化は環境の激変により物理法則にのっとってあっという間に起こる・・・
前掲の本、西原克成さんの「追いつめられた進化論」では、陸に上がった魚は20倍に増えた酸素濃度と6倍に増えた重力の作用で形質を変えたとありましたが、それを髣髴とさせるテレビ番組がありました。

▼重力が変える・・・

NHKの“サイエンスZERO”、「踏み出せ!宇宙農業への第一歩」で紹介されていたのですが・・・シロイヌナズナを遠心力を使って過重力で育てる。あるいは宇宙船の中で無重力で育てる。
すると同じ種子から発芽させていても、まったく異なる形に成長するんですよね。過重力の環境に置くとほんの一日でリグニンが増えるといった変化がおこり、これにより細胞壁が強固になり花が咲きにくくなる。そして逆に無重力の環境ではまるで開放されたように枝葉を広げ、すくすくと伸びる。
なんとシロイヌナズナの全遺伝子26000個の中で600個はその発現量が重力の影響を受けることがわかってきたとのことですが、これはその昔、浮力の働く水中で生育していたころから名残なのだと。


▼酸素濃度が変える・・・

こちらは立花隆さんの“NHKスペシャル”、「がん、生と死の謎に挑む」での話。
大きく成長したがん細胞の固まり・・・その中央部では血管も損なわれて酸欠の状態。普通なら細胞はがん細胞もろとも死に絶えるはずがFIF-1という物質が活動し始め低酸素でも生き残り、しかも浸潤し易い細胞に変質する。

これは酸素の供給が乏しい初期の胎児が生き延びるため、もっと遡れば海と陸の間を行き来していたころからDNAが持っていた機能がFIF-1の刺激で発現したもの。このFIF-1は酸素センサーとしても働き、100以上のほかの遺伝子の発現に影響するとか。FIF-1が活動できない状態にしたマウスの胎児はいろんな器官を生み出していくことができず死に絶えるとのことなんですよね。

重力や酸素濃度などの環境変化で思わぬ発現をするDNA。そういえば・・・南米の荒地が原産のトマトは極端に節水して育てるとDNAが持つ祖先の記憶がよみがえり、きわめて糖度の高いトマトとして成長するといった話も。どうやらDNAが内包する記憶の奥深さと、それが発現する可能性には計り知れないものがあるようです。(2010.3.12)
# by c_mann3 | 2012-08-16 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

◆人類進化の700万年・・・

最近どういうわけか、進化とか遺伝子といった本を読み漁っています。
で、たどり着いたのが「人類進化の700万年」、科学ジャーナリスト三井誠さん著、講談社現代新書1805。

読みやすくて感動的な本です。それにしてもちょっと変わった畑の本を読むとまったく知らなかったことに次々と遭遇し感動させてくれます。

現生人類の祖先は4万年前にアフリカを発った人たち。しかも現生人類の前にもう一つ前の人類がいたようなのですが、それも180万年前にアフリカを発った人たちで、この原人が生まれたのが700万年前だとのこと・・・

で、第一陣のアフリカ発の原人はヨーロッパやアジアに進出していたのですが、そのあと出てきた第二陣の現生人類に圧倒されて消滅してしまったと・・・

700万年の人類の歴史などというと日常生活には何の関係もない話のようでいて・・・なんかいったんは世界中に広まっていた技術や製品が、その後から出てきたものにあっという間に駆逐されて跡形もなく消滅するとか、突然降って沸いた観のある新たなグローバルスタンダードとやらが世界中の経済を席捲するといった話を連想させるものもあり・・・企業に身を置く者としてもいろんなことを考えさせてくれますよね。

こんな本を読んでいたさなか、ロシア南部で発見された原人が実は前記二つの系統とはまた別の人類だということが判明したとのニュースが流れていました。

化石の歯から採ったDNAから分析した結果とのことですが・・・この領域ではいまもなお次々と新しい発見や解釈が生まれつつある・・・

素人ながら興味津々、目が離せなくなるといった感じですが・・・こういったことを解説してくれる良質な科学ジャーナリストの存在ってありがたいですよね。(2010.4.26)
# by c_mann3 | 2012-08-14 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

◆そしてふたたび遺伝子の突然変異・・・

ひとつ上の記事で紹介している本「人類進化の700万年」、その第6章は“遺伝子から探る”と題したもので、DNAに関する最新の知見が満載の分りやすくて感動的な一章となっています。

“環境の激変に遭遇した際に起こる形質の変化は突然変異なんかによるものではない。突然変異はそんなに都合のよいタイミングでしかも種全体に一斉に起こったりはしない”・・・それはその通りなのだとしても、その環境変化に対応して新たな形質が発現できるのはDNAにその準備があってのことであり、その準備となるのが遺伝子に作用する突然変異の蓄積ということ。

この本によると、突然変異は一定の確率で確実に起こる。人の場合でいうと一世代でひとつの塩基に起きる突然変異の確率は五千万分の一、それでも60個の塩基に変異が起こる。その変異がその時点での生存に必要な部位であった場合はたいていの場合は生存不適となり、淘汰されて残らない。だが生存にかかわらない領域で起こった変異は交配により種の中に広がっていく。そしてその蓄積が次の環境変化の中で発現し、それが優位な場合は種を滅亡から救う。そんなことを繰り返しながら現生人類は今に至っているのだと・・・

人とチンパンジーの遺伝子の違いは1.23%・・・そのうちのどの遺伝子が人を人たらしめているのか・・・あごが弱り脳が大きくなったのは?言語を生み出すきっかけになったのは?・・・一つひとつの遺伝子の働きと変異が発生した時期が少しずつ明らかになりつつある話は感動的ですよね。

そしていくつか上の記事の中で、首をかしげながらも勝手な思いで書いていたDNAの変異と発現の図は、この本と照らし合わせてもとりたてて間違ってはいなかったようで・・・まずは一安心。

ただ厳密には有害変異は淘汰され、中立変異のみが広がる・・・といっただけではないようです。
遺伝子の変異と拡散については太田朋子著、「分子進化のほぼ中立説」と言った本もあり、母集団サイズによっては揺らぎの中で弱有害変異が保存されていくとも。この本、面白そうなのですが、難解です。(2010.7.20)
# by c_mann3 | 2012-08-12 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

◆人類や生命の単一起源説・・・

前掲の本「人類進化の700万年」のもうひとつのポイントは“単一起源説”なのでしょうが、実はこの“単一起源説”、何年か前に初めて接したときはちょっとしたショックでした。

以下、生命の進化と文明の進化(発達)を同一視して話をするのは気が引けなくもないのですが・・・

現生人類には共通の祖先があり、それはアフリカから始まったと。で、あちらこちらで発見されていたネアンデルタール人や北京原人は勢力を確保できないまま消滅していったとのこと。化石からもDNAからも証拠付けられるこの説に異論は唱えにくいのですが・・・生命進化では単一起源説が有力といわれると、生命の進化論を文明や文化の進化にも重ねたがる私のようなものにとっては、ちょっと心情的に引っかかるものがあるんですよね。

関孝和がニュートンやライプニッツに先駆けて微分や積分の概念に到達していたといった話がありますよね。あるいは発明や発見がまったく交流の無いあちらこちらでほぼ同時に生まれ、特許出願が一日違いだったといった話もある。
こうした話に感動しやすい技術系の私などは、発明や進化というものは環境や状況(ニーズ)、発達段階といったステージが似ていれば、相前後してあちらこちらで類似のものが花開くなどと思っていることもあり、人類の起源もあちらこちらで発見される原人がその地域での起点だとする「多地域進化説」を素朴に信じていたんですよね。

技術開発でも「多地域進化説」なら、他国や他社の動向を気にしなくても勝手に想像力を膨らませて、その筋さえよければ同等の価値を持ったものが独自に生み出せて並存できるというわけです。

他にも疑問はいろいろ・・・メソポタミア、中国、マヤ・・・数千年前に世界の各地の古代文明で天文学をベースにした正確な暦ができていますよね。これって同じ星を眺めていれば同じ結論に至るといった多地域起源?それともアフリカ起源の人たちが世界に散る過程のどこかで既に天文学に近いこと知っていた単一起源?あるいはシルクロードさえなかったはるか昔にアジアの西と南米の間では既に交流があり、実は単なる文化の伝播と模倣の構図たったということなのでしょうか・・・?


もっとも心情的に引っかかったのは私だけじゃなく、中国の学者の方にも少なくなかったとか・・・
火薬、ロケット、印刷技術、あらゆる文明の発祥の地と自認する中国としては祖先は自前の北京原人であってほしいですよね。ですがその思いの出口を塞ぐかのように・・・仮に北京原人が祖先だったとしても実は北京原人もネアンデルタール人もアフリカが発祥の地で第一陣として180万年前にアフリカを出て世界に広がったもの。その後それを追っかけて10万年前にアフリカを出発した第2陣の現生人類に取って代わられたのだと・・・
これでは遡っても遡ってもアフリカ発の単一起源の波状攻撃といった感じで、中国の学者も浮かばれないですよね。

◆さらに枠を広げて生命の起源の話となると・・・

これはNHKのTV番組「進化の木、人の起源に迫る」で紹介されていた話なのですが、地球上のすべての生命は辿っていくと共通の祖先LUCAに行き着くとか。
このLUCAを起点にした生命の共通項はACGT四つの塩基からなるDNAと20種類のアミノ酸からなるたんぱく質で構成されていて、35億年をかけて分岐を続け現在その仲間は5千万種とも一億種とも。
もっともその殆どは古細菌、バクテリアといった細菌類が占めていて今もなお新しいものが生まれ(枝分かれ)、行き詰まったものは絶滅していると。
となるとここでも単一起源説になってしまうんですよね。もっともこの番組の解説ではLUCAが出現した時代に存在していたのはLUCAだけじゃなかったと・・・だとすると単一起源ではなく単一生き残り?

こうしたネタをもとに勝手な思いをめぐらせながら、無理やりまとめてしまうと進化の歴史というものは・・・
  ①まずは単一起源でスタートしたとしても
  ②それがいろんな環境の地域に拡散し
  ③それぞれの場所で多地域進化を進め
   (この間、中立変異も蓄積され続ける)
  ④やがて訪れる極端な環境変化か競争淘汰で単一生き残りとなる

そしてこの④が次の単一起源となって新たな色で世界を塗り替えるといったことが繰り返えされるといったことなのでしょうか。ただ現生人類の単一起源説では新たな①は④の中からではなく、再び外部から入ってくるということに・・・繰り返し繰り返し新たなグローバルスタンダードを発信し続けた当時のアフリカっていったいどんな世界だったのでしょうか・・・(2010.7.20)

      ⇒⇒▼新着記事渡り歩き⇒⇒
# by c_mann3 | 2012-08-10 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

◆さらに続く進化論への好奇心・・・

好奇心の趣くままに、さらに進化論の本を漁り続けています。どの本も読み進めるうちに新たな視界が開ける思いの感動があります。で、そんな本を何冊か・・・


▼「カンブリア爆発の謎」、宇佐美義之著、技術評論社

5億4200万年前、爆発の名にふさわしく造形のバリエーションをを競うかのように奇妙な形をした生物が一斉に出現したカンブリア紀。多細胞生物が固い組織を獲得して多様化した結果でありリン酸塩を多く含む地層から発見されるとのことですが、こうした爆発的な進化はこの時代だけのものでもなく、この瞬間に始まったものでもない…この進化の準備はもっと以前から始まっていたのだと。

まずは15億年前にビーズの糸として多細胞生物が出現し、7億年前の地球全体が氷河に覆われる時代を経て、6.3~5.4億年前のエディアカラ期に生物は一斉に多様化を始める。そしてその後の再度の氷河期でいったんリセットされたのち、カンブリア爆発の時代を迎えた。だがそれは形の変化であって遺伝子レベルでの準備はもっと以前の9億年前ごろに始まっていたとも。

▼「生命の起源」、パリティ編集委員会編、丸善

この本は物理学雑誌パリティの何冊かの特集記事を編集したもの。
第2章ではよく話題になる、メタンやアンモニアに火花放電をかけるとアミノ酸ができるといった疑似原始地球大気実験や、40億年前の原始スープが充満する海底の熱水噴出孔を模した実験などが紹介されています。

そして第6章では我々の共通の祖先LUCA、そしてそこから真核生物が生まれた不思議について・・・以下、章を追って生命を持つ太陽系外惑星を探しつつけている話、さらには数理学的な実験で自己複製機能を持った生命は作れるかといった話が続きます。
一部難解な章もありますが、驚くほど多様な分野の方々が物質や生命の起源に迫りつつある様子が窺えます。

▼「大量絶滅がもたらす進化」、金子隆一著、ソフトバンク・クリエイティブ

この本も衝撃的です。劇的な進化にはその手前の大量絶滅が必須。大量絶滅の中でわずかに生き残った者が敵のいない自由な空間で新たな環境に適応することで進化が起こるのだと。そして大量絶滅は隕石といった偶然の産物だけではなく、マントルの対流に起因する大陸の集合離散、それに伴う海進、海退、気象変化といった現象により周期的に繰り返されてきた現象なのだとも。

ところでこの本では今西理論を引き合いに、生物というのはすみ分けて均衡するもの、あえて戦いを挑んで自己の勢力を広げることはむしろまれ、周りの大量絶滅で奔放に手足を伸ばせる空間を得てこそ進化は可能といった表現も見られるのですが・・・この話はたとえば“会社組織の中での新興勢力の台頭”といった話にオーバーラップさせてみても、なんか示唆的ですよね。(2011.4.22)

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他にも下記の本の紹介記事を別掲しています。

   ◆生命 最初の30億年・・・アンドルー・H・ノース著、紀伊国屋書店、2005年刊
   ◆エピジェネティクス・・・仲野徹著、岩波新書1484、2014年刊
   ◆破壊する創造者・・・フランク・ライアン著、早川書房2011刊

# by c_mann3 | 2012-08-08 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

◆文明、文化はやはり多地域起源説・・・

(ふたつ上の記事で)人類はアフリカ単一起源だとしても、文明文化は多地域起源でなければ心情的にもしっくりこないなどとわけのわからない記事を書いていたのですが、世界各地の文明文化の起源と伝播の経緯をダイナミックに解説してくれている本に出会いました。

ジャレド・ダイアモンド著、題して「銃・病原菌・鉄」、副題が"一万三千年にわたる人類史の謎"で上下2巻の大作ですが感動的な本です。

たとえば農業は作物の遺伝子分析等で辿っていくとメソポタミア、中国、中米、南米(アンデス)、合衆国東部の5ヶ所が起源。
そして文字の起源を辿っていくとメソポタミア(シュメール)、メキシコ(マヤ)、中国、エジプトが独自の発祥地のよう。
それ以外の地では伝播を受けて進化したものだがその伝播には特徴がある。山脈、砂漠、気候帯といったものが伝播の妨げとなるため大陸の中では縦には伝播しにくく横に拡がる。したがって横に大きく広がるユーラシア大陸は伝播には有利。

文明の誕生は発明や発見といった一瞬の出来事ではなく、数千年をかけて少しずつ芽生えて育っていくもので、栽培や飼育に都合の良いものをかぎ分けることからスタートする。したがって植物にしろ家畜のもとの野生動物にしろ都合の良い生物が生息している地域であることが先発隊の条件であり、その人種が優秀ゆえに生まれたわけではない。そこでは自然淘汰では不利な変異種でも人類に都合の良いものを栽培することで人為的な淘汰が進み野生種がいつしか栽培種となる。

狩猟生活で自然を食い尽くす⇒それが栽培の誘因となる⇒定住が可能となる⇒効率化で余剰生産が生まれる⇒余剰で統治機構や軍隊や道具をつくる専門家を抱えることができる・・・こうしたスパイラルで文明や文化は生まれ、進化し、かつ伝播していく。いったん伝播を受けてしまうと自身で生み出すよりはそれを磨き上げる方が手っ取り早いため、文明文化の源流は辿っていくといくつかの起源に行き着くがそれは単一ではない・・・

不思議なことに発祥の地は今の先進国とは異なる。なぜ先発の地は伸び悩み、そうではなかったところが台頭し、現在の文化、文明、経済の不均衡が生まれたのか・・・その解明がこの本の主題なのですが・・・

メソポタミアは自然を食い尽くして途絶えた。中国はあまりにも統一のとれた国家が支配したため進歩の芽を摘んでしまった。
そんな中で東方からの大陸横伝播の終端として遅れて始まったヨーロッパの文明が、その後の改善進化で世界を圧倒する近代文明に到達した背景には地政学的な理由がある。
複雑な地形が原因で小さな国家や民族が統一されないまま残り、強すぎず弱すぎず、中程度の結びつきの世界であるヨーロッパは文明進化の切磋琢磨に必要な多様性があるがゆえに、伝播を受けた文明を磨き上げることには有利だったのだと。

この本は農業や文字が生まれて育っていく一つ一つの話がそれ自体でも面白い。ですが"伝播には「実体の模倣」と「アイデアの模倣」がある"とか、"偉大と言われて名を残している個人や集団の業績をつなぎ合わせるのみで歴史を語ることは困難”といった記載もあり、発祥や発見発明、進化とは何ぞやといったことについても改めて考えさせられる感動的な必見本です。

自然環境に分け入り嗅ぎ分けたものを育てることで自然に農業が芽生えていくといった話はどことなくレヴィ・ストロースの「野生の思考」を思わせたり、E.S.リードの生態心理学に通じる雰囲気もあったりもしますが、なによりもこの本には全世界と一万年を超える人類の歴史をわしづかみにした壮大さがあります。(2011.12.1)
# by C_MANN3 | 2012-08-06 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

◆「生物と無生物のあいだ」・・・

「生物と無生物のあいだ」、福岡伸一著。講談社現代新書・・・これもまた感動的な本です。

DNA、アミノ酸、たんぱく質・・・そのチェーンが織り成す生体の不思議が次々と解き明かされていくプロセスが、それに携わる研究者の熾烈な生き様とともに描かれているのですが・・・
素人にはなじみにくいはずの専門的な話がみごとな比喩、暗喩とからまって、まるでDNAのように螺旋状に展開されていて読み始めると目が離せなくなってしまいます。

そんな中で・・・窒素を放射性同位元素に置き換えたアミノ酸を三日間、マウスに食べさせた後、切り刻んでそれが体内のどこでどうなっていくのかを追跡する話が出てきます。

体内に入った食物は吸収されエネルギーとして燃焼し、そのほとんどが日をおかず排泄されるはずといった予想は裏切られ・・・何と排泄されたのはホンの30%。残りはすべて予想外に広範囲なあらゆる臓器のたんぱく質に侵入し入れ替わっている。そしてその分、古いたんぱく質が分解されて捨てられているのだと。

人体を含めて生物は放っておくとエントロピー増大の法則で飽和と死滅に向かって突き進むはずのものが、常に外部から負のエントロピー(食物摂取)を取り込み自身を再編成していく。

で、こうしたことから浮かび上がってくる生命感ということになるのですが・・・

生命とは代謝の持続的な変化であり、この変化こそが生命の姿。著者はこの絶え間なく壊されながら再構成される生体組織(の秩序)を「動的平衡」と呼んでいるのですが、秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない、生命とは動的平衡にある流れであると・・・
そこにあたかも肉体があるかのように見えるが実はそれは流れの中で渦巻くよどみのようなものなのだとも・・・

なんか・・・読んでいると方丈記を思い出してしまいました。
行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし・・・まるでそっくりなんですよね。

新鮮で刺激的なフレーズが満載ですが、こうした話を会社組織や組織心理の新陳代謝に擬えて読むとまた違った風景になるのかもしれませんね。(2009.6.23)
# by C_MANN3 | 2012-08-04 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

   ・・・次は・・・

      ◆次は「心の哲学」や「アフォーダンス」について・・・⇒⇒


# by C_MANN3 | 2012-08-01 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

◆「心の哲学」、ロボット篇・・・

以前から気になっていた本、「シリーズ心の哲学」、全3巻のうちⅡのロボット篇を拾い読みし始めました。

勁草書房2004年刊、Ⅰが人間篇、Ⅱがロボット篇、Ⅲが翻訳篇なのですが、この内のロボット篇は“心を持つコンピュータやロボットは作れるか”といったところから始まる一冊であり、技術系の人にもなじみやすい感じがします。

◆まずは“心はどんなコンピュータなのか”と銘打った第一章・・・

一口で言うと形式論理を演算操作する古典的計算モデルと、コネクショニズム(どうやらニューラルネットのようなもの)のどちらが認知、思考といった意味での心のモデルとして妥当かといった議論なのですが・・・
技術系の人ならエキスパートシステムとニューラルネットを脳裏に描きながら読むとなかなか迫力のある優劣比較になっています。

1980年前後に人工知能がブームになったころ、私なども他社がやるからにはとエキスパートシステムやニューロやファジーのアルゴリズムに一瞬の期待を持って取り組んではみたものの結局思ったような効果が得られずあきらめたことを思い出します。

新しい理論や技術に取り組む時はうまくいかないと、理論の理解が足りないとかもっと高速コンピュータを使って情報量を増さなければ・・・といった量的な問題に原因を還元してしまって、こうしたシステムやアルゴリズムにはテーマとの相性を含めて本質的な課題や限界があるんじゃないか、といった話にはなりにくいんですよね。

一つ一つのテクニックや理論の課題や限界は、個々の処理技術の固有の世界におぼれてしまうと見えなくなってしまう。
だからこそ、こうした哲学的なレベルの比較アプローチが必要だったのでしょうが、当時はこんな本は無かった気がします。で、直感や嗅覚に優れた技術者はさっさと見切りをつけたが、量の問題に還元した技術者は実らない畑を深追いした・・・

技術系の人の多くは固有の専門書を読むだけでも大変で哲学書などには手が回らないのかもしれませんが・・・こうした哲学レベルの思索があると無駄な努力から足を洗いやすく、より確実な体系の方向性が見つけやすいのではと思ったりもします。

◆そして第三章では「フレーム問題」が・・・

“ロボットがフレーム問題に悩まなくなる日”などというとんでもなく長いタイトルがついた第三章もなかなかのものでした。

実はフレーム問題ってなんだっ!という無知なレベルで読み始めたのですが、どうやらフレームとは、“何かを判断する際に考慮する範囲”ということのよう・・・
ロボットに人工知能を組み込んだとして、人間に近い判断をさせようとするとほんのちょっとしたテーマでもいろんな場面を想定し配慮すべきもろもろの条件をインプットしていくと、ほとんど実時間では演算不可能なほどの条件群になってしまう。で、判断を早めようと無視してよい事項も条件に加えたりするとますますロボットは悩んでしまう・・・結局今のところ妙案は無いらしいとか。

対して人間は、それほど網羅的で完璧な条件や知識を保有しているわけでもないのに、場面場面でそれらしい判断条件をかき集めてそれなりの判断をする。この話を突き詰めて整理していくときっと人間の「知」の前人未到の深遠に踏み込んでいくことになるのだと。
どうやら人間のフレームは事前に固まったものがあるわけじゃない。インプットされていない条件でさえ何らかの方法で補って動員し、都度編成しているらしい。そしてその編成を誘導するものがスキームや文脈といった抽象的なものや感情なのだとも書かれています。

さらには、感情の無いロボットはフレーム設計に失敗し破綻してもクラッシュすればそれで終わるのですが、人間はその際すごく傷つく。この傷心が原動力となって新しいフレーム構築のすべを生み出していくのだといった話も・・・

もっとも昨今の人間様はせっかく感情を持っているのに何か不始末をしでかしても、「はじめての話で思いもよらなかった」とか、「聴いてなかった」などといって全く傷つこうとしない人もいるような気もするのですが・・・(この項はさらに次ページにも続きが)
# by c_mann3 | 2012-06-20 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

◆「心の哲学」、ロボット篇・・・《続》

「心の哲学」ロボット篇・・・この本には本当にいろんなことが書かれています。 “拡張する心”と題した第四章もそのひとつなのですが、いわく・・・

認知科学というと認知プロセスを人ひとりの脳内でうごめいている認識や思考に限定して研究することが多かった。だが実際の認知プロセスは脳内だけでなく外部の道具や環境との共同作業で行われているもの。

たとえば3桁x2桁の掛け算は紙の上で筆算表記に変換して実行する。この場合、頭の中では一桁同士の足し算や掛け算に還元されてしまっている・・・

難しい問題は体外の道具と一体で処理にあたったり、問題自体をわかりやすい形に変換ししたうえで脳内処理に入る。人固有の認知処理、情報処理と思っているものもよく見ると外部に依存したプロセスが多く、困難な問題が解けるようになったとしても、脳が発達して高度な処理ができるようになったというよりは外部環境をうまく再調整したものであり、脳の負荷としてはむしろ軽くなっている場合が多い等々・・・

なんか読んでいると二つ上の記事で取り上げている「アフォーダンスの心理学」を思わせるところがあったり・・・さらにはこれも別掲記事の「難しい計算より難しい簡単な計算」で書いていた勝手な思いが多少裏付けられる気がしたり・・・いろいろと親和性を感じさせてくれる一章でした。

◆ところで・・・はじめにありきは言葉?イメージ?

「はじめにことばありき」・・・これはよく使われるフレーズですが、実は数十年前に岩波新書で「はじめにイメージありき」と題した本が出ていて、それに接して以来、“ひとは脳内で何かを考えるとき、言葉で考えているのか、はたまたイメージ処理のような形で考えるのか”・・・それが気になったままでした。

ところがこの本には面白い話が・・・
人は言葉によって思考すると言われているが・・・実は言葉は脳の外部に存在している道具のようなもの・・・道具としての言葉を使うことで思考が正確で他の人に伝達できたり保存ができたりはするが、脳内の思考自体は言葉で行われているわけじゃないと・・・

この話は、上述の桁数の多い掛け算や足し算を例に説明されていて、
紙の上の筆算表記に変換して多桁の掛け算を実行する場合、頭の中の思考としては一桁同士の足し算や掛け算のみしか実行されていない。多桁の計算自体は脳の外部の紙と鉛筆で行われている・・・実は言葉もこの紙と鉛筆のようなものなのだと。

じゃ、脳内固有の思考システムはどんなものかということになりますが、もしニューロコンピュータのようなモデルだとすると・・・思考はイメージ処理の形で行われていると言ったほうがいいのかもしれませんよね。(2008.1.31)
# by c_mann3 | 2012-06-18 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

◆「心の哲学」・・・人間篇

ひとつ上に(スクロールしたところに)掲載している「シリーズ心の哲学」Ⅱの“ロボット篇”が面白かったこともあり、引き続いてⅠの“人間篇”を読み始めてはみたのですがロボット篇以上に哲学的で難解。
結果、ちょっとした感想文さえまとまらずついに1年が経過してしまいましたが、このブログでは避けては通れないテーマです。

この本は・・・
>心に関するわれわれの理解は多くの錯誤に満ちている。心の哲学はそのような錯誤を根本的に正そうとする試みである。

などという書き出しで始まり、二十世紀後半に始まった認知科学や脳科学の進展を俯瞰、整理し方向付ける形で心の何たるかを哲学したものであり、“こころと脳”の関係、“こころと環境”のかかわり、“意識とクオリア”といったテーマが扱われています。

まずは1950年代の「心脳同一説」からスタートし心を物理的な脳に対応付けようとするのですが、・・・いろいろな無理や矛盾が指摘され時代を追うごとにトークンレベルの同一説から「タイプ同一説」へ、そして「機能説」,「解釈説」、「日常的実在論」へと話は展開。
そうした中で心を脳の中で閉じ込めて取り扱うことには限界があるとして「外在主義」が現れ,意識の源とは何かといった観点からは「クオリア」の話が現れる。

それにしてもこんなに次々と論や説が出てくるとその違い追っかけるのも大変ですよね。ですがこうした流れに沿って読み進めると確かに心の全体性に迫りつつある感じはします。ただ一方において、論が進むにつれて脳との直接的な対応からは遠のいていくといった気がしないでもない。

どうやらこの哲学のミソは、すでに語りつくされたギリシャ哲学や東洋思想はいったん横におき、認知科学や脳科学といった科学をベースにして心に迫る説や論とその対立点を整理していくと、その先には何が見え、心をどこまで語ることができるのかといったことにあるようです。

脳や心について基礎的な新しい知見が得られつつある今、このアプローチは魅力的ですが、一方で時代を追うごとに脳との直接的な対応をあきらめたような説や論が出てくると、それではギリシャ哲学や東洋思想と変わらなくなってしまいそう・・・
脳科学や認知科学との連動性にこだわらずに心の動きを語ろうとするならギリシャ哲学や東洋思想にのっとったほうが手っ取り早くて説得力も圧倒的ですよね。

さらに思うことですが・・・
こうしたアプローチで心とは何かということが明確になったとしても、その心の中でうごめいている葛藤や希望や絶望の中身についてまで説明することにはならないような気もします。

そういう意味では認知科学や脳科学は“心のひだ”というよりは“プラットホームとしての心”を追求する際によりどころとするもの。心の確証のすべてを脳科学などにゆだねるのは無理なのかもしれませんよね。(2009.1.8)
# by c_mann3 | 2012-06-16 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

◆「暴走する脳科学」・・・そして心

「暴走する脳科学」、河野哲也著、光文社新書377。この本も結局のところ“心とは何か”ということなのですが・・・脳科学とのかかわりがより詳しくかかれているところがミソ。
しかも難解だった前掲記事の「心の哲学」人間篇のほぼ全容が、この本の第二章「脳と拡張した心」でそのまま読みやすくコンパクトにまとめられていてありがたい一冊となっています。

ともあれ・・・脳科学は今,疾患の治療を超えて恐ろしい勢いで発展しつつある。
生理的機能の面では、脳の各部位の機能が明らかになり局部に電極を突っ込み電位を操作すると痙攣や激情がコントロールできる。逆に電位を取り出し義手や義足に接続すると指までが動かせるサイボーグの世界が実現しつつあり、ここまでくると遺伝子組替え等と同じく活用には倫理的な配慮が必要とのこと。

一方、心的機能の面でも心の動きと脳の活性部位、神経伝達物質の増減関係が明らかになりつつあり、特に感覚入力にまつわる基礎的な部分については成果が得られている。

こころとはきっとこんなものだろうと機能モジュールに分解する。そしてそのモジュールが働いているに違いない状況を作ってfMRIなんかを使ってその役割を果たしている脳の部位を特定していく・・・あるいは脳に刺激を与えて心の動きを見る。
そうしたことを繰り返しながら・・・いま心理学は認知科学や脳科学と密接な連携をとりつつある。知覚といった身体生理に近い領域では確実に確固たる基盤が固まりつつあるようです。

だが心的機能の中でも知、情、意といった高次の機能となると一筋縄では行かないとのこと。どうやらこうした高次の心的機能は脳内の広範囲の領域が絡まって動いていて、しかも環境との相互作用が強いため脳内で完結しているものでもない。

それにしても高次の心的機能の領域で脳科学の裏づけを取ろうとするとだんだん怪しくなってくるというのが面白いですよね。でも怪しい中にも旧来の心理学が思っていたことのいくらかは裏付けられ、いくらかは変更を余儀なくされ・・・確実に何かが進展しつつあるのが感動的です。

何千年と思索を重ね語り継がれてきた心の世界も奥が深いですが・・・今新しく確認されつつある心の世界もまた興味深く、21世紀って結構知的な好奇心をかきたててくれる時代なのかもしれませんね。(2009.1.8)
# by c_mann3 | 2012-06-14 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

◆アフォーダンスの心理学・・・

ふらりと入った図書館で面白い本を見つけました。題して「アフォーダンスの心理学」、 エドワード・S・リード著、新曜社2000年刊。副題が“生態心理学への道”とあります。

人を悩める生き物としてメンタルな領域にのみ言及したり、そうかと思うとヒトをコンピュータや犬、チンパンジーに見立てたりといった心理学が多いなかで、この本はちょっと違う。

副題が“生態心理学への道”とあるようにこの本によるとヒトというものは・・・

・人は利用可能性(これがアフォーダンスの意味)にあふれた物や
 地形といった環境に囲まれて、その中で群れをなして生きている。
・ひとはその利用可能性の情報を嗅ぎ取り、それを加工、変形し群
 れが棲息しやすいものに変えていく。
・そのおかげでヒトは他のどの生物よりも広範囲のあらゆるところ
 (生態的ニッチ)で棲息できている。
・利用可能性の情報はマイクロスリップと称する一種の試行錯誤で
 収集し、集団の文化として蓄積されていく。
・ヒトがヒトたるゆえんはこのように環境の中にあって環境との「切り
 結び」を通じて進化するところにある・・・ということのようです。

心理学は本来、人ひとりを包括的に扱うはずのもの。
包括されるべき人ひとりの全体性・・・たとえば私なども家庭にあっては家族の一人として、会社にあっては組織の一人として、群れにまぎれて棲息している。群れているのにその中で、まるで動物が小さな縄張りを確保しようとするように、ひと一人分の我を張り自己主張したがっている奇妙な存在。

そうした中でいろんなことに悩んだり、喜んだり、執着してみたりあきらめたり・・・心の中はいろいろだとしてもその心を引っさげて心血を注いでいるのは、たとえば企業人なら知恵を働かせ環境から切り取った資源や情報を加工し、いろんな製品やサービスを生み出し世間の生活環境を変えること。

でもどんなに高邁なことを考えてはいても知識も知恵も行動力も全ては群れの中に群れと共にある。と同時に現代にあっては全てはITや機械や都市機能といった“ひと本来の能力を拡張しうる環境”の利用可能性を前提にある。

そんなふうな人ひとりの全体性のうち、喜怒哀楽の心のうちは深層心理学でもそれなりに理解の助けとなり、行動系や認知系の心理学ではヒトの生理学的なカラクリについての知見は得られるのですが・・・こうした心理学にはそうしたヒトが血道をあげている生業に関する言及が無さ過ぎる。

その点、生態心理学はどうやらアフォーダンスといったことを接点に人と物の関わりを扱う。組織とか群れを扱う。ヒトひとりとか群れ一群が生息できる場を扱い、そこでの物や組織を含めた環境活用の進化を扱う。そして結果が文化として扱われる・・・これぞ人を実態に近い形で包括的に扱う心理学なのかもしれません。(2007.9.5)
# by c_mann3 | 2012-06-12 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

◆再度、「アフォーダンス理論」・・・

一つ上(にスクロールしたところ)の記事でエドワード・S・リードの「アフォーダンスの心理学」に接し、いたく感動と書いていたのですが・・・
この度たまたま図書館で見つけた本、佐々木正人著「アフォーダンス-新しい認知の理論」(岩波科学ライブラリー12)を読み、あらためて目からうろこの感動!

今回の本はアフォーダンス心理学のベースとなった「アフォーダンス理論」そのものの解説本。アフォーダンス理論が生まれてきた経緯やトピックスがわかりやすく、しかもコンパクトにまとめられています。

従来、人は外界の刺激を視覚や聴覚の刺激として取り込みそれを脳内で処理することで情報として認知しているとされてきましたが、副題に“新しい認知の理論”とあるようにこの本によるとそうじゃないのだと。

アフォードダンス理論は当初はゲシュタルト心理学への疑問から生まれたが、やがてそれを乗り越えて新しい地平に到達した。
人は単に点滅するだけのネオンサインに流れや図形としての動きを認知したり、単なる音符の羅列からメロディーを認知する際もどんなに変調されていても一定のメロディーを感じ取る。人が認知する情報は刺激の総和を超えている。そしてしばしば刺激からは生成できないはずの情報さえ認知する。

このあたりまではいわゆるゲシュタルトの世界なのですがそのゲシュタルト質がいかなるプロセスで取り込まれているかを追求する中で、たとえば戦闘機のパイロットやスポーツマンを分析すると、どう見ても情報処理の時間が足りないような速さで情報を認知し、かつ環境に働きかけている。

ては認知プロセスの本当の姿は何なんだということになるのですが・・・結論から言うと情報は脳内処理の結果ではない。環境の対象自身がすでに情報を有しており、人はその環境の中に分け入って“利用可能な情報(これがアフォーダンスの意味)”そのものを直接取り込んでいるのだと。イメージとしては高度に脳を働かせる中枢神経系というよりは、おびただしい反射神経の集合体といった感じなのかもしれません。

そして例えばこの理論をロボットに応用すると、従来の“すべての動きは脳内の中枢情報処理でありそれに見合った情報の記憶と手順のプログラムが必要”との前提で設計したロボットはちょっとした状況の違いで立ち往生してしまって動けなくなるが(いわゆるフレーム問題)、アフォーダンス的な発想で作られたロボットは旧来の意味での知識や行動手順は持たないため、フレーム問題などには悩まず初めての環境や突発的な事態でもキビキビと動き回るといったエピソードも・・・ 

アフォーダンス理論は心理学だけでなく、IT、人工知能、工業デザイン・・・いろんなジャンルの人が必見の理論なのかもしれません。そして読んでいるといわゆる心の哲学の「外在主義」に通じる雰囲気もあるんですよね・・・(2011.2.26)
# by c_mann3 | 2012-06-10 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

◆外在主義・・・

ここしばらく脳と心の関わりにまつわる入門書を渡り歩いているのですが、その中でやはりこれがキー概念なのかもと思い始めたのが「外在主義」。“こころはどこに?”との問いに対しては多分これがファイナルアンサーということなのでしょうか。

心を支える脳のメカニズム自体はもちろん体内にあるのだとしても心の核心は環境との相互作用の中にある。言葉を操るメカニズムは体内にあったとしてもその言葉自体は社会的なものだし、その言葉を駆使して思うことの中身は個を超えて共有されるもの。

そうしたことを称して外在主義というようですが、これに似た臭いのするものはそういえばこのブログでもいろんなところに・・・

▼アフォーダンス心理学
・ユングの普遍的無意識や▼サイコイド領域
▼押井守さんの“人は既にサイボーグ化していて都市は擬体”
▼マクルーハンの“人間拡張の原理”

さらには「シンボリック相互作用論」なんてものもあるんですよね。
以前、鹿児島大の桑原先生がYAHOO掲示板の心理学コーナーで「シンボリック相互作用論」を紹介されていたのですが、その中でさりげなく出てきた言葉が刺激的でした。
“自我は社会的相互作用が内在化したもの”、“相互作用が無くなれば、自我は(それだけの理由で)揺らぎ壊れ消滅することもある”のだと・・・

こうした話をつなぎ合わせていくと、やはり心の核心は脳の中で完結できるといったものではない。

実は心理学に関しては以前から、心理学を外から眺めた書籍でしばしばお目にかかる「過度の心理学主義の弊害」といったフレーズが気になっているのですが・・・例えば深層心理学などでは全ての原因や結果を心の深層に求めて体内で自己完結してしまう傾向が強い。そしてそのことが原因や対策の矛先として社会に目を向けるパワーをそぐのだと。
もしかしたら在外主義はこうした弊害への歯止めとしても有効なのかもしれません。

◆こころの構造モデル・・・

ところで外在主義を反映するとこころの構造モデルはどんな形になるのでしょうか・・・

私自身、このブログの別掲記事で“▼こころの三層構造”と称して、普遍的無意識と普遍的意識が社会や歴史とつながっているなどという勝手な自家製モデルを捏造していたのですが、
ひとつ上の記事で紹介している本「サブリミナル・インパクト」ではこころの構造を「意識」、「前意識」、「無意識」の三層構造ととらえていて、この前意識の層が環境や社会と共有されるモデルであり、これを使っていろんな概念が説明されていて確かに解り易いですよね。しかもいろんな刺激が環境からダイナミックに侵入してくるイメージがリアルに浮かんできます。

そんな中で外在主義に思いをはせていると、よせばいいのにまた新たなイメージも浮かんできます。
それは大海に浮かぶ氷山モデルならぬ、“大海に浮かぶスポンジモデル”・・・?!

水面に浮かんで空中に顔を出したところは意識の世界。だがその領域は自分固有のもののようでいて多孔質のスポンジの無数に開いた孔の部分に取り込んでいるものは世界に通じる大気であり、風と共に常に入れ替わる。
水面下の領域は無意識の世界だとして、それが自分自身の固有のものかというと、たっぷり吸着した海水は大海原につながっていて、波にもまれて揺れ動くたびに入れ替わっている・・・
結局自分自身のものはといえばスポンジで言うなら海綿体。つまり入れ物にすぎず、容積の殆どは環境由来のものなのかもと思ったりも・・・

そして人の脳とスポンジとの違いは、スポンジとは異なり人の脳の海綿体には柔軟性があり取り込んだものによりその形を微妙に変える、そして変化した海綿体が吸収する環境成分を微妙に選択する・・・そういった柔軟性と相互作用のハーモニーが人の脳の特徴なのかもしれませんね。(2009.2.21) 
# by c_mann3 | 2012-06-08 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)

◆素朴心理学は消去される・・・??

素朴心理学という言葉があるようですね。

前掲の本、「心の哲学」人間篇でも触れられているのですが・・・素朴心理学(folk psychology の訳語だとか)はどうやら学としての根拠が曖昧な心理学を指すようで、いずれ科学的な根拠を持つ心理学に取って代わられ消去される・・・これが“素朴心理学に対する消去主義”という立場だとか。

ただこの言葉、インターネット検索などでみているといろんな使われ方をしているようで・・・どういうポジションの人が何を指して言うかでニュアンスが変わりちょっと怪しい感じがなくもない。

素朴心理学というのはちょっと乱暴に例えると・・・

まっとうな(西欧的な)医学に対する民間療法や祈祷療法ってとこでしょうか。たしかに高度に発達した西欧型医療の前に先進国では祈祷療法は消去された。そして民間療法やおばあちゃんの知恵袋的なものもかなりの部分、影を潜めている。でも民間療法としてくくられる中には数千年の歴史を持つ漢方のようなものもあり・・・漢方が消去されるかどうかはその社会の文化や思想次第ですよね。

で、心理学の話に戻りますと・・・

西欧由来の分析心理学などの一応学として扱われている心理学の立場から、占いもどきの心理学は素朴心理学であり消去抹殺されるべきというあたりまではいいのですが・・・
“科学的心理学とは脳科学や認知科学で裏付けられるもの”といった立場をとる人から見るとさしずめユングなどは素朴心理学に分類されかねない。で、脳科学や認知科学が発達するといずれ消去されるということになる・・・

だったら漢方は消え、ユングもお役ごめんの時代が来るのかということなのですが・・・
例えば脳科学が発達し、喜怒哀楽がニューロンのもつれ具合や神経伝達物質で説明できたとしてもそれは物理現象としての喜怒哀楽であって、その喜怒哀楽の中身やテーマを特定することにはなりそうにない。
悩んでいるとき増量される神経伝達物質は特定されたとしても失恋の悩みと仕事の悩みを区別する神経伝達物質が発見されるなどとは思いにくいですよね。

“こころ”というターゲットはとにかく広くて深い。脳科学や認知科学からは昨日も今日も目からうろこのような新しい知見が提示されてはいても、広くて深いこころの領域の中では今のところ限られた領域での話であり、縦横無尽に心を表現するユングなどに比べると未だ説明能力不足。

ユングの圧倒的な表現力は人がこころをもてあましながら生きていく以上、永遠に優位なのかもしれません。(2008.12.31)
# by c_mann3 | 2012-06-06 00:00 | クオリアとか進化論など | Comments(0)