アラヤ識、確かに面白く、理解しやすく、著者の言うようにユングなんかになじんでいる人には読んでいてほとんど抵抗がない、といった感じです。
▼まず心をどういう構造体として捉えているか、表層から深層に向かって列記すると・・・ ・ユングでは・・・『意識』『自我』『無意識』『普遍的無意識』 ・唯識では・・・・『意識』『マナ識』『アラヤ識』『アマラ識』 ということで、個々の意味するところは多少違うにしても,驚くほどよく似ています。 「マナ識」は別名「分別識」といって、本来ひとつのものを言葉で分別していくことで執着を生む、自我のネガティブな側面とよく似た執着の源。 「アラヤ識」は無意識に相当しますが、基本的にはその人自身を超えた輪廻転生の源、やはり個人的なものと普遍的なものを含むようであり、特にその中の「アマラ識」は菩薩になりうる「淨」の集まった普遍的なところということです。 ▼で、誰がために何を目指すか・・・ ユングで目指すものは・・・自己実現、あるいは個性化、いや実は何も目指してはいない?などと議論してきましたが、唯識ではずばり涅槃を目指すということになります。 ただ小乗仏教の涅槃が自分自身の涅槃を目指すのに対して、大乗の唯識では、涅槃の境地に達しても涅槃に入らず、世俗に残り救済に勤めるのが最高の涅槃ということのようであり、『十牛図』の悟ったのち街に帰り救済に当たる原型はこれなのかもしれません。 ▼ならば悟りに達するプロセスは・・・ ユングでは無意識の領域から浮かび上がってくる各種の元型を自我がとりこみ、より完成した形の自我を形成していくことが個性化ないし自己実現のプロセスということになりますが、唯識では本来、不浄なものが充満しているアラヤ識を修行により浄なるものに置きかえていくことが涅槃への道ということになります。 ▼ではそれを目指す修行とは・・・ ユングはもともとセラピストやカウンセラーがクライエントに対して働きかけるといったところから出発していて、自身が何かを目指して積極的に修行といったニュアンスは希薄です。通常は無意識からの原型は状況により補償やエナンティオドロミアといったエネルギーフローとして沸いてきてしまう、ないしはカウンセラーが必要に応じて井戸水をくみ上げるようにくみ上げるといった感じで、クライエント自身は、まな板の上の鯉といった感じはいなめません。 対して唯識では、「多聞薫習」そして「瞑想」。正しい教えを多く聞く、それが薫製の煙が滲みこむようにアラヤ識の中に蓄積し、浄なる種子となり、やがてそれが芽をふく。悟りとはアラヤ識の中の不浄な種子を如何にして浄なる種子に置き換えていくかということのようです。 「瞑想」とは座禅ですが、唯識の座禅は無念無想の方法だけでなく、言葉やイメージを使って思いつめることでアラヤ識の浄化を図る一種のイメージトレーニングのようなものもあり、なるほどといった感じです。 以上ですが、ユングがたとえ修行の書ではないとしても、ユング理論に精通し、それを心の迷路を歩く地図とすることでセルフカウンセリングし、自己実現を目指す・・・といったことには期待が持てる、それもユングの魅力のひとつなのではないかと思います。(2005.2.14)
by c_mann3
| 2006-08-18 00:00
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Comments(2)
初めまして
悟りに達するプロセスについての突っ込んだ検討に感心があります。 ユングと唯識の比較は面白い視点だと思います。 これからもこういうのをお願いします。 またちょくちょくよらせていただきます。
Commented
by
c_mann3 at 2005-04-10 22:01
湖南さん、こんばんは。よろしくお願いいたします。
湖南さんのブログ拝見させていただきました。十牛図をまとめておられるんですね。私もちょっと興味を持っていますので・・・ぜひ参考にさせていただきます。 ところでブログって投稿日順に並んでしまうので十牛図のようなものを順番に書いていくと出来上がったブログでは逆順に並んでしまって読みづらいですよね。でどうしたものかと悩んだ結果、私の場合は投稿日はすべてダミー。読んでいただく方が普通の本と同じように下へ下へと見ていただけるように投稿日を細工したりしているんですが・・・
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