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◆読書の履歴《その他いろいろ・・・》

◆区分別読書の履歴◆  その他、いろいろ・・・ 


◆人間の限界 H30/9読

 さる方から勧められて手にした本なのですが、題して「人間の限界」、霜山徳爾著、岩波新書917、1975年の刊です。

人にとって限界とは何なのだろうか。「頑張りましたが、もう限界です」と耐え難い苦難の中で遺書をしたためる人がいる一方で、何の起伏も無い無為な毎日に限界を感じる人もいる。
人生に意義を見つけることができるなら、あるいは達観できるならと人はいうが、それは容易ではないし、おそらくはそれで救われるものでもない。
しかもそうした限界を終わらせることができたとして、その向こうにあるのは何なのか。人の心は限界の手前で希望と絶望の間を揺れ動く。

この本はそうした人の姿を古今東西の書籍の中から抜き取ったおびただしいフレーズ、そして時には心病める人の叫びの言葉をも並び立ててしなやかな文体で紡んでいきます。
話はまず、手や足や瞳、まなざし等、身体に纏わる可能性と限界として語られていきます。人類は2足歩行を手に入れたことで大地に立ち、そのおかげで手の自由を得、まなざしは遠くをとらえられるようになった。だが重力にあがらって立ったことにより重荷を背負うことにもなった。そして足元が揺らぐとめまいを引き起こすことにもなる。自由の手はものを生み出す一方で悪に手を染め厄介を招くものでもある。そうして歩む道は限りが無いようにも見えるが、いったいその先にあるものは何なのかといった不安も引き起こす。

限界の手前の不安、そこを限界とはしたくない執着・・・そうしたことを抱えながら歩む道にもやがて人には命としての限りがあり、ついには限界を超える日を迎える。その時人は限界の前後に区別はなく、ただ切れ目のない無限の世界が広がっているだけだったのだと思い至るということなのでしょうか・・・

と勝手な要約をしてしまいましたが、この本、読んでいてどことなくフランクルを思わせると思っていたところ、本の奥付の著者欄ではフランクルの「夜と霧」の訳者と紹介されています。読み終えて何かの結論が得られるわけではないのですが、この本の流れるような文章に身を任せ、しばしの間だけでも限界の手前をさまようのもいいのかもしれません。

◆世阿弥 H30/6読

放送大学のスクーリングで「中世の宗教文化」を受講する機会があり、その講師の著作ということで手にした本なのですが、題して「世阿弥-心身変容技法の思想-」。鎌田東二著、青土社2016年の刊です。

まずはこの本の副題にある心身の変容とはいかなるものなのか。それは勝手な要約をさせて頂くと・・・
人はある種の場に身を置いたり、何かの行為に没頭することで、邪念や日常から解放され、心身のありようを整えたり、困難を乗り越える力を得たりする。
変容へのプロセスは、一人で行うこともあれば集団で行うこともある。宗教儀式の形をとりトランス状態を伴うものもあれば、果てしなく続く文武諸芸の修練の形をとることもある。そうして変容を遂げた心身を持って人は困難な事態にあっても人生に立ち向かっていくことができる・・・ということなのでしょうか。

この本では世阿弥の生涯と彼が体系づけた申楽を軸におきつつ、洋の東西の宗教儀礼や求道的な心身鍛錬の様を広範囲に俯瞰することで、心身変容の諸相、そして変容技法の共通項を浮かび上がらせてくれていますが、そのいくつかを列記すると・・・

場としての洞窟。古くは古代人が壁画をのこした洞窟、天岩戸、弘法大師が籠もった室戸の洞窟。洞窟は魂を鎮める場であるとともに新たな命を生み出す象徴の場でもあります。

静寂の中の音。縄文時代の石笛、修験者が深山で奏でるほら貝・・・静寂の中で響き渡る音は心身にしみわたり魂を揺さぶります。

集団が巻き起こす場。立体音響に包まれて果てしなく繰り広げられる踊り、スーフィーのセマー(旋回舞踏)やズィクル(唱念)、仏教の踊り念仏や声明・・・その中に身を置けば、そこはもう別次元の世界なのかもしれません。

身を限界に置く。千日回峰行や果てしない巡礼の行脚、身を限界に置いたり危険な状況に置く事もまた技法となるようです。

更には時代が変容を促すということもあるようです。時代は統合・建設(古代、近代)の時代と分裂・崩壊の時代(中世、現代)を繰り返しており、分裂・崩壊・激動の時代にこそ変容が求められるが、世阿弥が生きた中世という時代は正に激動の時代でありました。従って彼自身も人生の浮き沈みの中で変容を余儀なくされていくのですが、だからこそ彼が生涯をかけて生み出した申楽にも、鏡の間を持った舞台の構造、仮面や楽曲の活用、演者の役回り、そして演目といったところに、心身変容の神髄がたっぷりと含まれているとのこと。

この本が描く変容の世界はユングなどが描く変容とはやや雰囲気が異なりますが、心理療法においても音楽療法、演劇療法といったものがあることを思えば、通底するものがあるのでは、とも思います。
ところで著者の鎌田東二さん、丸二日間に渡る放送大学の講義では休憩時間に入ったことも気が付かずにあふれ出る中世解説の中で、突然カバンから取り出した縄文の石笛の音がするどく教室内に響き渡つたりもして・・・この講義自体もまた異次元の世界でした。

◆中動態の世界 H30/10読

“中動態”・・・斉藤環さんのtwitterで発見したこのなじみのない言葉が気になり手にした本なのですが、題して「中動態の世界」。國分功一郎著、医学書院2017年の刊で副題に“意思と責任の考古学”とあります。

この本によると中動態とは、英語などの文法に出てくる能動態、受動態に類する言葉のようであり、英語を始め現代のインド・ヨーロッパ語系の言語では使われなくなっているもの。ただスペイン語には一部その痕跡が残り、古代ギリシャ語では頻繁に活用されているとのこと。
そしてその意味するところは“(主語の)意思によってした”わけでもなく、“何者かによってされた”のでもない、“気がつくとそうなっていた”という状態を表すものなのだと。それは主語も無く、意思もなく、責任も伴わない、ただ“そうある”のみの世界であり、実は“依存症”の人が自身の状態を訴える言い回しとして頻繁に使われているものでもあると。

中動態は言語の歴史においては能動態や受動態よりも古く、原初の動詞を多用に活用せしめる用態として使われていたのだが、あるころから“人の行為には意思と責任が伴うべきもの”といった人間観の台頭により、それがあいまいな中動態はいつしか消滅し、能動か受動かを厳しく選別する言語体系が幅を利かせるようになった。
だが言語の体系は人が生きる時代を反映して形を変えるものではあるが、一方でその言語が人を拘束しはじめる。この変化によって人は何かにつけて意思や責任の念に付きまとわれ、生きるに息苦しいものとなったのだとも。
なるほど、だからこそその息苦しさからはみ出した依存症の人々には中動態を思わせる言葉があらわれるということなのでしょうか。

この本では中動態が何たるものであるかを、人の心の在りようとの関わりを含めて解説した上で、行為の主体であることやその意思、責任にはこだわらずにあるがままを表現し、それに生きた中動態の世界はどうやら本来の人の心性のマッチしたものであったと。従って原初のそれを理解し今に活用できるなら、少しは人生が生きやすいものになるのではないかと締めくくっておられます。

ところでこの本ではその中核部の大半のページが古代ギリシャ語は言うに及ばず、サンスクリット、パーリー語と広範囲な古代言語の文献に分け入り、その中で中動態が使われている様相の分析、検証が繰り広げられていて、正に言語の考古学といった趣の一冊となっています。
その分難解ですが・・・実はインド・ヨーロッパ語系の最初の言語(紀元前3000年ごろ、ウクライナの辺りで生まれたらしい、共通基語として想定されているもの)には動詞は無く、名詞だけで構成されていた。そしてその後、動詞が現れたが当初は中動態の様式で活用されていた等々、面白い話もいくつかちりばめられています。

ところで読んでいて思ったのですが、インド・ヨーロッパ語系とは異なる日本語、そしてそれを使って生きている日本人は、(例えば文章に主語が必須ではない、意思や責任をあいまいにする等々)もともと中動態の世界に近い所にいるのではないかなどと、ふと・・・

◆レキシコンに潜む文法とダイナミズム H27/10読

由本陽子著、開拓社刊。レキシコンとはヒトが心の中に持つ「心的辞書」のこと。その中核は母語に関わらず普遍的で生得的なものであり、だからこそ赤ちゃんは活用や文法の詳細を教えられるまでもなく、爆発的に語彙を膨らませながら活用し縦横無尽に言葉を操るようになる。
その動詞はいくつの項(目的語や補語)を必要とするか、名詞や動詞が互いに転用される際の規則は何か、派生語や複合語が生み出される際の制約は何か、そしてそれらは単純に割り切れる文法規則なのか語彙によってダイナミックに変化するものなのか・・・心的辞書にはそうしたことがぎっしり詰まっているとのことですが、この本ではその心的辞書が持つ構造を日本語と英語を対比しながら次々と解説してくれています。

ところでこの心的辞書の構造がほぼN.チョムスキーの「生成文法」そのものなのだと・・・
昔からチョムスキーの「生成文法」については気になっていながら本も読まずに過ごしてきたのですが、この一冊で長年の喉のつかえが下りた感じです。そしてこの本、期せずして放送大学のスクーリング授業のテキストとして遭遇したために、なんと著者の二日間にわたる熱のこもった講義付きで、感動的な出会いとなりました。

◆職業としての小説家 H29/10読

 10/5、今年のノーベル賞はカズオ・イシグロさんに決まりました。今年も逃した村上春樹さんへの落胆の声は、イシグロさんが日系人だったため、歓喜の声にかき消されてしまった感があります。
その村上さんが興味深いエッセイを書いておられます。題して「職業としての小説家」、スイッチングパブリッシング社、2015年の刊。書き続け、読まれ続ける小説を書くための、職業人としての生きざまを色々な角度から書いておられます。

 例えば、何をどう書くか・・・テーマとそれを表現する文体の如何がその作家を特徴づけることになるが、深遠なテーマを重い文体で書こうとすると、作家はやがてその重みに耐えられなくなる。そこで村上さんは日常の中の何気ないテーマを繋ぎ合わせ、それを軽いタッチの文体で書く事を目指したと、そしてその文体は(かつてジャズ喫茶を経営していた村上さんらしく)ジャズの軽妙なフィーリングがベースになっているとのこと。

 日常の執筆活動についても特異です。芸術作品を書く作家というとどうしても興に乗れば昼夜書き続けるが、行き詰ると悶々とした日を過ごす、仲間とのサロンを作り夜な夜な飲み歩く等といった勝手なイメージを持ってしまいますが、村上さんは異なる。
同業仲間とは群れず、毎日ランニングを欠かさず、決められたリズムで一定の時間量を書く。構想を組み立てながらひたすら書き、何度も練り直す。そのくだりを読んでいいるとまるで緻密な試行錯誤を繰り返して仕上げていく大工さんか何かの職人のようだと思っていたら、なんとご本人がその様を“とんかち仕事”と称していて思わずニンマリ。
そうして書き終わるとまず奥さんに見てもらう。そこで意見が出たヶ所は意にそう沿わないにかかわらず、必ず筆を加える。だがそうして脱稿し出版社に手渡した後は業界人などの論評には一切構わず、読者のみに身をゆだねるのだと。

 実はこの本、賞についても言及されていて、ノーベル賞を含めて賞を得た人、得なかった人の言を引き合いに出しながら、一過性の賞自体は問題ではない、永く読者に読まれ続けることがすべてなのだと・・・

随所に含蓄のある執筆姿勢や本を世に送り出す際の気遣いの話が並び、タイトルにわざわざ“職業としての~”と銘打っておられる理由がわかる気がする一冊でした。


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by C_MANN3 | 2016-12-10 00:00 | Comments(0)
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