◆布置、共時性・・・ひとつの理解

サイコイド領域で作用する布置、共時性の話ですが・・・

共時的な現象は“元型が布置した結果、激しい情動的な緊張が存在する場合に生じるものであり、それは要するに外的事象と内的事象の二重性存在から一なる世界(unus mundus)に変化するということ”だとか・・・
これは例のYAHOO掲示板でshizukafagerさんが紹介しておられたフレーズです。

ちょっと難しくてとっつきにくいのですが・・・じっくり読んでみるとやっぱりこうとしか言いようがない気もしはじめます。
共時性が成立するためには、内的なエネルギーが前提としてあり、それがランダムに動いている外的なものの一瞬を切り取り、あたかも特別な関連があるかのごとく認識する・・・それを“一なる世界に変化する”と称しているのだと思います。

たとえば・・・私なども人生の要所、要所で突然壁に行く手を阻まれたとき、不思議にドンぴしゃりのタイミングで危機突破のアドバイスをしてくれる人に恵まれて道が開ける経験を何度かしていますが・・・その人とは日ごろから親しいといった人でもなく、ちょうどそのタイミングで短い雑談をする機会に恵まれ、その一言が決定的な意味を持つ・・・こうした経験を重ねるうちに、このことを運がよかったとか、ありがたかったなどと思う一方で、もしかすると実はこれが布置、共時性なんじゃないかと思うようになりました。

本当に追い詰められ、心的エネルギーがレーザービームのように何かをサーチしているからこそ、通りすがりの人の何気ない一言をキャッチできる。布置を単なる配置と考えるなら人は常に無数の配置の中にいる、しかしそれは日常、何の意味も持ち得ていない。
共時性の話には“星の配置との同期”とか“むしの知らせ”といった話題が出てきてややこしくなるのですが・・・人であれ、星であれあらゆるものが常に流転して時空間を形造っている中で、ある瞬間を「意味のある偶然」として切り取るためにはやはり心的エネルギーの求め、ないしは心と時空間の呼応が必要といった感じがします。

・・・ですから私には共時性というものは、不思議とか、偶然とか、ましてや念力やオカルトといったイメージはまったく無く、極端な言い方をすると「必然」に近い現象といった感じさえします。

「求めよ、さらば与えられん」・・・共時性というものは、ほとんどこれと同じ意味であり、求めていないときもそれは、私達の周りに常に存在しているものなんだと・・・(2006.3.1)
by c_mann3 | 2007-07-18 00:00 | ユングのすそ野の 風景 | Comments(0)
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