◆「林住期」と結廬在人境・・・

四住期の1期を25年とした場合・・・林住期が文字通りの隠遁だとすると、たしかに50才でそれを行うのは困難。ですが似たような効果をもつ生き方が無いわけではない。ひとつは呼吸法、もうひとつは在宅のままの出家。

◇まずは呼吸法が平穏を生む

五木さんの「林住期」では呼吸法に一章が割かれています。物理的な呼吸法が体調を整え、こころの充実や平穏につながるといったことなのですが・・・時代の空気を呼吸する、空気を読む、風を読む、といったように空気は肺に取り込むものばかりではない。いかに呼吸をしこころに気を取り入れるかが重要。
唐突ですが・・・ひとつのモデルは大海を泳ぐ鯨。流線型で何の抵抗も摩擦もなく大海を泳ぎまわり、嵐で時化た日は深く潜行し穏やかになると水面に顔を出して潮を吹く・・・自在の生き様はそれだけでも絵になりますが、さらに呼吸法も強たか。一呼吸ごとに大量の海水を取り込みはするがフィルターでオキアミなどの栄養だけをかすめとったあとはそのまま体外に放出してしまう。大量の海水はエキスを運ぶための単なるキャリアーでしかない。

喧騒の「家長期」にあっては聞きたくなくても聞こえてくる話、見たくも無いのに見えてしまう風景・・・そうしたものが心をざわつかせ、邪念や感情がそれに過剰に反応して不必要に気を摂取してしまう。いわばこころの過呼吸症。だがそれを遮断してしまうと判断材料がなくなってしまう。
・・・もし鯨のように選択吸収できるなら話は変わってくるのかも。たとえばおびただしい情報から感情的な成分をふるい落として摂取できるなら、判断材料は損なわれないままに心はずいぶんと穏やかになる。

◇そして在宅のままの出家

喧騒の真っ只中にいるはずの稲盛和夫さんが出家して、しかも事業にはますますご熱心だとか・・・林住期を過ごす場所は人里はなれた林とは限らない。隠遁の庵は街の喧騒の中といったこともありえる・・・

中国の詩人、陶淵明の詩にこんなものがあるようです。
b0050634_20415589.jpg  結廬在人境
  而無車馬喧
  問君何能爾
  心遠地自偏
  采菊東籬下
  悠然見南山
  山気日夕佳
  飛鳥相與還
  此中有真意
  欲辨已忘言

もっともこれでは何のことなのかサッパリわからない。そこでどなたかの訳に頼ると・・・
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隠遁し小さな廬を結んではいるが、山林の奥ではなく人里に留まっている。なのに行き来する馬車や人の動きの喧騒は全く耳に入らない。
どうして、そんな風にしていられるのかとよく聞かれるが、どこにいるかが問題なのではない、心が俗世界から遠い所にあるなら、居る場所は自ずから辺鄙な場所と同じこと。

今日も今日とて、ひがしの垣根のあたりで、菊を摘みつつ、遠く南山のあたりを悠然とながめておった。折しも夕方の美しい光の中で、鳥たちも、翼を並べて巣に帰って行くところだった。
この平穏なる景色のうちに人生のまことの心が篭っている。それをどんなものかと説明しようと思うたが、ふと言葉を忘れてしまった・・・。
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コンクリート建造物の林立する街の中に身をおきながら、現実には立場も身柄も「家長期にあったとしても・・・周りの喧騒がなにか遠いところから聞こえる風のざわめき程度にしか気にならなくなり・・・竹林の中にいるかのごとく笹の葉と風が触れ合って織りなす微かなざわめきをBGMに、心は時空を超えた世界に遊泳させながら現世に生きる・・・といったことは呼吸法ひとつで(?)可能なような気もするのですが・・・そのためには、ちょっと修練が必要かな?(2007.4.18)

ところで、稲盛和夫さんは1997年9月7日、京都府八幡市の円福寺(写真)にて得度されたとのことです。

by c_mann3 | 2006-06-10 00:00 | ユングのすそ野の 風景 | Comments(0)
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